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「骨董 笑日幸美 大賞」2009年度集41号第1回作品発表!!


「寛保三年の笹と脹ら雀皿」
松沢 善裕 
 千葉県から転勤で岐阜県に飛ばされた。縁故もなく全くの知人も無ければ友人もいない所だった。数ヶ月して日常の生活に慣れ始めると休日の時間を過す難しさをいやという程味わった。誰も知り合いがいない事は自由だが営業でない身には時間を潰す物がない。買い物といっても何も欲しい物もない。図書館で近隣の景勝地廻りでもしょうと本を借り、ついでにスーパーで小型カメラも買った。
 有名な所は土日はひとが混み合い何となく腰がひけた。六月末、ちょうど関ヶ原合戦400年等の催事があちこちで催されていた。重要伝統的建造物保存地区に指定されている興味のない人には知られていない所を選び予定を立てた。滋賀県五個荘町金堂に行ってみた。時代がタイムスリップした様な景色がいたる所にあった。もう二度と来る事もないだろうとカメラのシャッターを押し続け薄雲の全く人の居ない時代ががかったこの地に自分を置いたことが不思議なくらいだった。
 帰りに彦根城に立ち寄ろうと思い、車で帰り道を間違え細い路地に入り込みuターンしょうと骨董屋さんらしい所の駐車場でターンさせてもらった。店から女の人が出てきたので、お詫びして出て行こうとした所 「店、みていかへんのんか?」と聞かれたので車を停め店の内を見せてもらった。客は誰も居なかった。店の中は雑然と古い近江箪笥の中や棚に器が沢山並んでいた。古い民芸品や何に使ったか判らない大きなカメや木箱に入った漆器類。「何が好きなんやな?」と聞かれ困ったが 「焼き物です」と答えたが、自分が何が好きなのか本当は判らなかった。そして勧めるがままに何にでも使えそうな小皿を家族分だけ買った。思ったより安価だった。
 数日して新聞の勧誘の人がアパートに来て玄関先で話をした。「店の主人が骨董好き」と話していた。知り合いも居ないので次の休みの日に新聞店を訪ねて行った所。話が合った。月末に一緒に先日伺った彦根の店に行く事になった。
 店ではお茶を出してくれ詳しく色々説明してくれた。世間話などして京都の話になった。一緒に行った新聞屋さんは京都の大学に通っていた為、話しが様々通じ合ったようだった。店の隅で、すすで黒ずんだ箱の中に笹の絵が描かれている汚れた皿が目についた。箱の蓋に字が書かれているが汚れと煤で黒くて読めない。店の女の人が 「安くしとくから買うてね」と言っていた。箱に虫喰い跡もあり、気に入ったひもが通せる様になっている。店主は 「今度町内会の旅行で足立美術館に行くのんやから費用の足しにしたい。是非買うてェな」との事。値段はあんたはんが決めてええ」と言ってくれたが全く値は判らない。今度また来るから、と言ってその時は連れもあったので帰った。
 夏の農道に陽炎か立ち上がる程熱い日に書類の納品の仕事滋賀県八日市市迄行く事になり、午前中に仕事は終わった。帰りに彦根の骨董屋さんへ寄ってみた。遅い昼食のソバをご馳走してくれた。一人前は届けてくれないので丁度良かった。前に見た雀の皿はそのままだった。
約束したつもりはないが結局、私の言い値で預けて貰った。女主人は 「店の物を売ってまるで蛸みたいに自分の足を食べているみたいや」と言っていた。バブル時代が弾け一時のブームがすでに去った後だったので、こんな事で商売になるのかと思った。家に帰って皿も箱も何度も汚れを洗った。
 箱の字は斜めにしても逆さにしても読めない。水に濡らして陽にかざして見ると僅かに
寛保三年伊万里焼六寸皿揃えと読める。西暦1743年だ。皿の中の雀は約260年位前の雀の姿だという事が判った。呉の色は良いが白い部分は振り物が多い。形はその当時のものなのだろう。美しさはないが古さはわかる。
低い箪笥の上に皿立てで飾ると部屋がたった一枚の遠く時代が染みてみえた。すごい存在感があった。
 彦根の女主人はあの年の秋に足立美術館の窓枠にした日本一の庭の景色を見たのだろうと思った。まだ元気なのだろうか?いつか伺う機会があったら聞いてみたくなった。皿の中の雀は260年たった今でも皿の中から飛び出しそうな姿勢をしている。古い時代のものほど新しく見える様な気がする。窓から見ると北西側に伊吹山が西日を受け山の形で輝いていた事を思い出す。
 詳しく年代を調べると雀と笹が無名の絵師によって描かれたのは、尾形乾山が没した年である事が判った。鑑識力がある訳ではないが、この皿の寿命の長さと西国から流れてきた足跡を思うと、雀の可愛らしさが一層増す様に感じられる。私の眼の力はまだ美に対して養われていないが、自分の歴史の短さを知った。又、時代を重ねる毎に消えていく古い美しいものに心惹かれる自分を改めて認識した。


一期一会(その1)
松沢 善裕 
 もう二十数年も前のことになるが、結婚まもないころ秋田の秘湯黒湯温泉への旅行を計画した。自家用車で日本海側を北上しながら、江戸時代に栄えた港町を巡って骨董を探そうという目論見もあった。骨董に興味を持ちはじめたばかりで、当時はまだ 「鑑定団」の番組もなく、各地方には特色のある品物があるだろうと期待しながらの旅であった。
 京都を皮切りに大津・都賀・金沢などで親切な骨董屋さんに出会い、旅を楽しみながら、新潟の町にたどりついた。ある小さな骨董屋に入ると、年配の店主が須恵器や縄文土器や黒陶の深鉢を並べて見せてくれた。どれも五万円でよいとのこと。当時、生け花を習っていた妻は 「お花に使いやすい須恵器かしら」と言う。早速分けてもらい車に積み込んだ。
 黒湯温泉も堪能して福岡に戻ったが、どうしても縄文土器が気になって、新潟の店に電話をかけてみた。「あの土器は近所のお年寄りが買っていきました。でも、もうかなりの年なので、亡くなられたら私が買い戻してあなたに送ります」との返事だった。
 一年ほどたって骨董屋の奥さんから葉書が届いた。そこには 「先日、主人が亡くなり、貴方とのお約束が果たせなくなりました。申し訳ありません」とあった。骨董との出会いはまさに 「一期一会」であることを痛感させられた。


一期一会(その2)
松沢 善裕 
 もう二十数年も前の結婚間もないころに計画した、妻との「日本海沿岸骨董探しの旅」の途中、敦賀市内に間近なところで渋滞にひっかかってしまった。照りつける日差しの下で車列は動かず、地理不案内な中に思い切って裏道へ入り込んでみた。道が分からず右往左往しているうちに一軒の骨董屋の前に出た。
 早速お邪魔してみると、焼き物や家具など選び抜かれた品々が並べられている。なかでも佐渡箪笥が目を引いたので、見せていただくと金具もすばらしく痛みもない。「五十万でいいですよ」と言われる。引き出しを引くと、中に向付けがたくさん入っている。「五十個ほどありますが、箪笥を買っていただけるならお付けしますよ」とのこと。骨董に興味を持ちはじめたばかりで、このような重厚な箪笥にはお目にかかったことがない。「欲しい!」と思ったが、新婚家具を揃えたばかり。涙をのんであきらめた。「向付けは一個八百円でいいですよ。全部もっていかれませんか」との声に、妻が「これ、湯のみに使えるわね。五個だけいただこうかしら」と言うので分けてもらうことになった。
 福岡に戻り、お客さんにお茶を出しては喜ばれていたが、ある時、知り合いの骨董屋さんが遊びに来たのでお茶を出すと、向付けを見るなり 「これどこで手に入れました?いくらでしたか?」と聞く。「一個八百円だった。まだいっぱいあったよ」と答えると、真剣な表情で 「場所を教えてください。明日行って来ます」と言う。「敦賀の近くだったけど、渋滞に巻き込まれて裏道に入って出会ったから、場所や連絡先は分からない」と答えると、ガッカリして帰っていった。
 しばらくして、福岡天神の町に出て骨董屋さんをのぞくと、同じような向付けがかなりの高値がついて展示されている。葡萄唐草が陽刻された古伊万里の染付向付けと知るのは後日のことだった。


寺泊骨董街 
浅川 廣吉 
 新潟県は他の県に比べると、骨董店の数が少ないように感じられる。他県には骨董村などと銘打って複数の業者が集まった所謂ショッピングモールがあり、大変振るわっているようである。
 本県にもショッピングモールとまではいかないが、これに近いような所がある。所は長岡市寺泊地区で買って浜茶屋が軒を連ねていた所である。以前、この浜茶屋の裏手はすぐ海で、大変な振わいを見せていたが、潮の流れの関係か、だんだん海辺が沖に向かって拡大し、今では海へたどり着くのには数百メートルも歩かなくてはならない。そんなことで浜茶屋には閑古鳥が鳴くようになり、殆どの浜茶屋が店を閉めてしまった。
 この空き浜茶屋に目をつけたのが骨董屋さん達で、今4軒の浜茶屋を借り受けて商いをしている。1軒の骨董屋さんが入っている店もあれば、数件が品物を持ち込んでいる所もある。
浜茶屋であるから面積も相当広く、ありとあらゆる物が並んでいる。だがウン十万やウン百万もする高価な品は殆どない。ある主人曰く、浜茶屋であるであるからして、プレハブに毛が生えた程度の造作で勿論立て付けも悪く、夜無人になるような所は泥棒は入るそうなのである。
こうなれば高価な品など置けたものではない。
しかし、広い店舗ゆえに品数は豊富で来訪者の目を飽きさせる事はない。勿論毎日のように通っていれば飽きてしまうだろうが、たまに行くと結構面白いところがある。今県内では露天ののみの市数ヶ所で一月に1回日曜日に開かれているが、のみの市のない日曜日などはついつい暇を持て余して、寺泊へ出かけることがある。どこの店も満員という訳にはいかないが客に切れ目はない。
私のコレクションの中にもここから手に入れた物が数点ある。
 私はコレクションルームを1室設けてこの中にコレクションを飾っているが、この部屋は今では飽和状態にあり、1品新しいコレクションが加わると余分な1品をここへ持ち込んでは軍資金作りをしている。この4件の骨董屋さんのうちの1軒のご主人を懇意になり、行くと立ち寄っては茶飲み話をしてくるが、見ていると結構素人やコレクターが品物を売りにくる。そうそう高価な品物にお目に掛かったことはないが、割とウブな品物が多い様である。私がこの店に持ち込んだ品が予想外に高く売れたとかで、ある日差額を貰ったという良心的な店でもある。
 私は機械類は好きで、のみの市や骨董市で昔の重いモデルガンを見ると買ってしまうが、もう何年も前のこと、この骨董街で1丁のモデルガンを見つけたことがある。自動拳銃のわりには値段も1万円そこそこと良心的な値段に思えた。この時は、モデルガンなど直ぐに売れないだろうとタカをくくってその場を引き揚げた。数週間後にあのモデルガンを買い込んでやろうと意気込んでいったところ、件のモデルガンはもうなくなっている。こんな所でモデルガンなど早々に売れる筈がないと馬鹿にしていたのが間違いのもとであった。この時ほど骨董との出会いは一期一会であるということを思い知らされたことはなかった。
その後、この骨董街でモデルガンを見かけることはない。
 寺泊骨董街は宣伝もしていないことから、知る人ぞ知る骨董収集の穴場といえるかもしれない。
店のご主人には失礼かもしれないが骨董屋といっても全ての分野に目がきくとは限るまい。思わぬ掘り出し物があるかもしれない。とにかく種々雑多な品物が並び、来てみてガッカリするかもしれないが、来てみないことには始まらない。
 寺泊は県内有数の漁港でもある。骨董街の近くには鮮魚店が軒を連ね、新鮮な魚介類が並ぶ。食堂、温泉、宿泊施設もあって新鮮な日本海の味覚を堪能でき、県外からの観光バスも結構訪れる。越後へお越しの際は、ぜひ寺泊に立ち寄ってみては。先ずは来てのお楽しみというところか。


骨董を趣味にして思う事
面手 勝仁 
 サラリーマンが、骨董収集をやっていると金銭面、コレクションの面で、色々大変である。ある有名作家のコレクションを見たらその一品、一品のレベルの高さに、我が収集物の貧弱さにあきれてしまった。一時、 「俺はガラクタを集めているのか。」と嘆き、骨董店に行くのをやめてしまった事もある。しかし、まだ私の給料くらいでも何とか私の収集欲にかなう古物がかろうじて存在しているので何とかこの趣味は継続している。
 ある人が、骨董収集 「日本文化の落ち穂拾い。」と評した。この言葉は真に正鵠を得ていると思う。歴史の浅い国と異なり縄文時代から、平成の玩具まで骨董市に並んでいる風景は、壮観である。そして、歴史好きにとって知的好奇心をくすぐる何とも深い趣味である。こんな事を考えていると、かくも歴史の奥深い日本の国に生まれて良かったと、とりとめない事を思うのである。
 ただ、物欲が抑えきれず、ある人の奥さんが 「コレクションを止めなければ、離婚する。」と家庭崩壊寸前までいった話をしっている。しかし、この珠玉のコレクションも、この人が死ねば二束三文で処分されてしまうのがオチであろう。また、一般人のコレクションが公立の博物館などに、寄贈される例は幸せである。残念ながら、私のコレクションの中で公の施設に引き取ってもらえるレベルの物は数点しかない。
世の中には伝世の桃山の志野、織部(市場に出したら目の飛び出るような価格であろう)を、寄贈された○特の方もいるので、骨董の趣味もまんざら無意味ではないのであろう。私は、工場勤務であるので、無機質な環境で働いている。だから、家に帰るとその反動で、古い焼き物や木製品が恋しくなる。他の人から見れば、全くおかしな感覚かもしれないが、古美術の形、線を見ていると心が和らぐのである。現代の規格化された工業製品とは対極の位置にある。
最近、若い骨董屋さんが、今までにない感覚で、品物を展開されているが、私の前に述べた思いに叶っている。
 従来の茶道具主体の古美術から、生活に密着した骨董に移って行くのがトレンドであろうか。骨董が決して特殊な趣味でなく、私のような、一サラリーマンでも気軽に入り込めるように切に願うのである。


宗淳尼 思い出話 その(一)
板野 宣光 
 あれは正月の諸行事も済み二月の終わりか三月の初め久々に岐阜の町に出掛けた。着いた処は新物、古物の茶道具店、○○屋。明るく改装されていた。頼まれた○紗、扇子、花合羽、花器、剣山等の支払をしていると奥から威勢のよい主人が出て来られ 「二階にいいものがある」と先頭に立って案内される。階上もすっかり整ってずらり並んでゐる。春慶塗の丸卓に梅月棗、春野蒔絵棚に輪花水指し、早々と矢羽七宝透風炉、先に眉風炉、古いところでは伊万里大皿何十万、十右衛門茶碗拾二万、象牙七福神に陶陽先生の備前花入れが欲しい高い値段に足が竦む…。と気早い主人が察知して立ち上られたのをしをに階段に向かい下りかかったその先、踊り場の隅、四、五段積まれた箱の奥に五センチ程見えるのはまちがえなく光背だ。「アッ仏様だ」と低く声を出した、とたん、先頭の主人の足が(手ではない)箱に少しかかると、カラカラッと空箱が土間に。土間に○々驚く私の前にスックーと輝くばかり黄金の観音様。「まあお気の毒に、背にも腕にも、うっすら埃が。申し訳なくおさすりすると、くっきりあとが着きます。
「庵主さまぁ〜お安くぅしておくから、負けるからァー」とおっしゃる 「どうしてこんな処に」と訝る私に、何でも金沢か富山の二、三体突然持って来て置いていった。まあ、最初はウィンドウに飾っていたが、近所のお婆やお爺が線香を呉れ、ろうそくは赤がお東で、白が禅宗だと云うし、仏壇を取り寄せて呉れないかと! 商売の邪魔にもなるし面倒だし、アチコチ移動して余の処にも置けずに階段の隅になった次第と云われる。「本当に値打ちしておくから」と観音様に痛く同情した私を見て 「えい」と軽々小脇抱え大机に据えるや否や 「好子ォー新品の晒し一反持って来おいー」と呼ばれると待ってましたばかり、明るい奥さんが 「ハァイー」かたかた反物を動かし大きな分厚い手で器用に蓮座から光背の光端までみる見る間に包まれておしまいになり、赤い大鋏を差し出す白い指も、無造作にザクザクッと切られる仕草も新派の名演技を見る様でした。早速赤ちゃんを抱く様に運転席の隣にそっと立てかけ 「庵主さまぁーお金は何時でもいいからー」と二度も私に言い含めバターンと威勢く閉められお二人の笑顔に車はそろそろ走り出しました。あっしてやられたか!と一瞬思いましたが今日は善行を積んだのかと晴れ晴れした、いい気分で車窓一過寺に着きました。一息つく間も惜しく助手席から下ろそうとしたが思いのほか、重くて重くて身動きもされなく○く観音様を傷つけない様に難儀して外におつれし、二三歩すると余りの重さにヘナへナ草の上に二人共坐ってしまう。あたりは深閑としている。
利巧な三次は鳴きもしない。こうはしておられない。誰かに見つかったらなんと言いふらすか、大体見当が着く。渾身の力を振りしぼって持ち上げるとスッーと抱かれて下さった。私の願いが通じたのだ。一気に部屋までお運びし、新しい木綿の風呂敷四つに畳んで白い布をおとりするとホットされた様子、もう何十年も前からおすわりなっている様で私も安堵した。
 二日程して隣のつねさんが現れた。一目見るなり私以上に喜んで呉れ御本山のあみだ様より妙本寺さんより此のあみださんはさんは美しいし、お話しも出来る。頭の痛い時は首から腕、歯の時は頬を、足のだるい時はおみ足を撫でたりさすったりしておりました。それからはみかんから始まって野いちご、いちじく、野ぶどう、瓜、なす、胡瓜、南瓜、冬がん、西瓜、なつめ、桑のみ、野さんご、里芋、おっさに、じゃが芋、ごぼう、なんでもなんでもある。大きな物は切ったり煮ふくめたり或る時真新しいカワラケにこれは何だとひとつまみするが、ふきでも、うどでも無い。香ばしい胡麻の香りとしょう油一垂か、ほろにがさ身上で考えている中に観音様より先に食べてしまった。聞くとたんぽぽとおっしゃる。まだ薄っすら寒いのに何処にこんな柔らかな茎があるものか。
 こんな事もあった。観音様のお膝元に早咲きの藤の花がみづみづしい。よーおーくみると藤の花の天ぷらだ。その花房といったら、おおきさといい、花の色といいこんな上品な藤の花ははじめてだ。その上食べれられる。又ふんわり、さみどり色の新芽の天ぷらがその上にそっとのっていた。さすがの私も一晩そのままにしておこうと思うが天ぷらは揚げたてが一番。サクサクと何だか私もお上品になった気がする。不思議な事につねさんは亭主の事も姑の事、子供どこから嫁に来たのか、人の事に万事気が無く私も一切聞かれず呑気に付き合えた。棒縞の木綿に同じ様な細い帯をして顔はおぼろになったが後姿に味があった。
 何時に無く晴れやかなつねさん 「今日はどじょう祭りに行って来ましたと云う。いいお天気だしわらびでも出ていないかと、ちょろちょろ川に行くと青蛙が一匹昼ねをしておった。川は澄んで雲が流れていた。そっとわしも腰を下ろしていると、それは大きなどじょうが気持ち良さそうにスーイスーイと川上から泳いで来た。わしらの目の前までくるとぐるぐる大巻き巻きして水の中、泥の中にもぐった。澄んだ小川は一遍に濁って雲も何も見えなくなった。暫く水もおさまり白い雲がゆったり流れ川底の泥も刷毛で撫でたようになったそうだ。ピチピチピチピチ何処からか子供のどじょうが十匹又十匹又々十二匹あちらに一かたまりこちらにりのお御輿を担いで廻りに廻ったそうナ。蛙もわたしも手をたたいて誉めた。私は吹き出してしまった。蛙はどじょうを食べに来たのだと言うと、つねばあさんは真顔でどじょうのお御輿を誉めた。ちょろちょろ川の水草も調子をとってゆれ合ったそうナ。こんな山深い里にもみすずさんのようなばあさんがいた。つねさんは詩人であった。
 ある夏、雑貸屋(別名放送屋)のハッちゃんが来た。ぐるっと見廻し大声で 「何でも何でも引っ掛てあるーヒャー雑巾まで引っ掛かかっとる」汚いものを持つハッちゃんの手元を見ると、それは草取り専用の私の帽子、古くなって他人から見たら雑巾にもみえるが…。若いのに目が悪いのかと疑った。彼女が帰った夜、全部下ろしてみた。知らず知らず都合が良いので、ちょっと失礼とばかり掛けも掛けたり、慶事用赤数珠、葬儀用黒房白房、台変製常飯用、小屋の鍵から自転車、自動車のキイ、皆、並べて反省した。物掛けにしていてはもったいない。お連れ申した甲斐がもない。まだあの道具屋の方がお賑やかだし、時には美人も通られるし、第一活気に満ちている。観音様をお清めして冷たい麦茶を差し上げた。
 こんな事もあった。お経から帰ると、つねさんが何かあみだ様とお話し中。珍しい事もあるものだと聞きただすと、若い頃、始めて子か、二番目か一ツか二ツの頃亡くした。姑の手前、子供故お葬式も出来ずに箱に入れて裏山のお墓にうづめた。あれから四十年かもっと先か、このあみださんがおいでた時、丁度大きさも顔も良く似ていた。(あみださんと子供が似ている話は初耳だと思ったが、そうであったかつねさんはあみだ様と我が子を同化していた。よだれ掛けもよく運んで呉れた。最後になったよだれ掛けは天下一品。真っ白い上等な繕いで裾の方が萌黄のぼかしあるかなきかの黒い雨の線。柳の枝が二、三本斜めに走って恰好よい。燕が飛んでいる。フリルが無くさっぱり裁ち切ってくけしてある。お首のダーツも無くて小さなホックで止めてあった。いくら好きなものでも知らぬ間に肌寒く替えねばなるまい。今頃のよだれ掛けこのさい並べてみた。二、三才の幼児期から娘時代、壮年まで春夏秋冬、なんという細やかな細やかな気配りだろう。驚くべき色使いは天才でイッセイ先生も膝を打たれるとおもうが。つねさんは雲の動きも青空も雷さんからお星さん、お八幡の大杉も蛙も蛇も牛も猫も紅葉も南瓜も冬瓜も三次もこの私もみんな、つねさんと一緒で悲しんだり喜んだり悉皆成佛とはいうけれど、つねさんは悉皆同魂であった。だからこんなにも美しい物を見つける正しい眼と知恵を授かったのであろう。
 お釈迦様も観音さんもお地蔵様もお不動さんもみんなみんなあみださんであり、南無阿弥陀仏であったが、それはそれでいいのである。
つねさんが亡くなって十三回忌も過ぎ、あのハッちゃんも四年前働きすぎが、元気にサッと逝ってしまった。気がしづんでしまった。
 景気の良いお話しをして終わりにしょう。あの道具屋、○○屋さんが地下一階地上7階のビルを岐阜駅前にデーンと建てたそうナ。不思議はない。昼、夜働くお二人と誰にも好かれる番頭さん。この観音様の御加護もあるにはあるのである。


山下財宝 それは存在するのか?
地島 博秋 
 第二次世界大戦(大東亜戦争)も、末期、フィリピン駐留の、日本軍総司令官、山下泰文は、戦況危うきことを慮り、フィリピン中央銀行の、地下金庫にあった、現地で押収した、金貨、銀貨、純金インゴット、ダイヤ宝石などを、安全な場所に避難させようと決意した。ある夜、密かに、軍用トラック50数台を、フィリピン中央銀行に横着けし、密かに積み込みが行われたという。そして、そのトラックの車列は静かに、どこともなく消えていったという。だが、これらの大金塊がどこに運び込まれたのか、はたまた、どこに隠匿されたのかいまもって全く謎である。なぜなら、軍事機密としてトップシークレットだったからである。それ以来フィリピンでは、だれそれがそれを発見して密かに、売りはらい、大金持ちになったとかのうわさばなしが、とかく、絶えない。それらの中で、一番有名なのが、マルコス大統領が、無名時代に、それを掘り当てて、政治資金にしてそのおかげで、あそこまでのし上がれたのだという噂話である。
 あるいは、一説によると、フィリピン中央銀行地下金庫は当時からっぽで、何もなかったのだという説もある。信憑性が高いのは、現地使用・交換用の為に急造されて日本本国から送られた、2万枚あったといわれている、いわゆる、丸福金貨だった、という話もある。丸福金貨というのは、戦争末期に、日本で作られた金貨で、今で言う地金型金貨のことである。メイプルリーフ金貨とかウイーン金貨とか、今、売られているあれと同様である。
 戦争末期、日本の軍票(戦時流通用臨時紙幣)も信用を失い、受け取りを拒否され、その対策として、現地華僑から、調達物資の購入用に急遽作られた地金型金貨であったのだ。重さは1オンス、約33グラム、直径30ミリ、貨幣の表面には大きな字で「福」と、刻印されているのみの単純なデザイン。裏には24K 1000の刻印。他に 「寿」とか「禄」と刻印したものも存在するという。時々、骨董市場などに幻の丸福金貨として出てくるが、後世に作られた、模造品が多いという。この金貨は刻印が「福」という一字が打たれただけの単純なものなので、模造は実に簡単だからである。したがって、専門家でも本物と模造品を判別するのは至難のわざという話だ。
 さて今でもなおフィリピンでは、探し続けられ、掘り続けられている山下財宝。本当に出てくるのだろうか?いや、もう出てしまって、見つかってしまっていて、闇から闇に処分されたという話もある。確かにもし、見つけても政情不安なあの国で「見つけました」と名乗り出たとしたら、とんでもなく身の危険が迫ることであろう。だからたとえ見つけても、闇から闇に葬られる確率が非常に高いだろう。いずれにしても、いまだ謎だらけの山下財宝伝説ではある。



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