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「骨董 笑日幸美 大賞」2009年度集42号第2回作品


老爺の笑顔の写真と鷺文筒形猪口
吉田 静司 
 十年前の思い出です。四国の新設工場の設備の仕事で初めて四国へ渡った。山口県柳井からフェリーで松山まで、そこから車で西条市まで行った。宿は工事関係者専門の民宿的な所だった。
 三月の時期には珍しく連日の雨で工場の基礎のコンクリート型枠が外せず臨時休業となる日もあり、宿の近くの喫茶店で待機時間を過ごすことが重なった。町の長いアーケード商店街はシャッターを下ろしている店も数多くあり、景気の悪さが地方まで浸透してきた状況だった。
 バブル景気が既に過ぎ、街は沈んでいるように見えた。商店街の裏通りに古道具等を並べてある店があったので気になり、訪(おとな)う声をかけて店へ入った。
 茶道具らしい物が多く、桐の箱と一緒に色々と並んでいた。年齢不詳の老爺が店の奥に座っていた。「見せて下さい」と願い頭をさげた。老爺が「どこから来んしゃったか?」と聞かれたので、「千葉県から海側の工場に仕事で来た」と答えた。「まあ随分遠い所から来んしゃったな」と言ったきり話は進まなかった。
 ガラスケースの中は黄色の布で覆われた茶入れや茶碗がいくつも並ぶ。下段の一番奥の見えにくい隅に、濃い藍色の猪口がうっすら埃をかぶって十客ほど無造作に並んでいた。口が少し欠けたりヒビが入っているのも二〜三客見える。他に染付のものは大きな水差しくらいで、土色の茶碗や黒っぽいものが多い。外の雨は止みそうにもなく、ガラス戸まで風に叩かれ濡れている。老爺はお茶を小さな急須で小さな猪口に淹れてくれた。一口で飲み終える量だ。「商売はどうですか?」と聞くと、「裏通りのため客はほとんど来ない」と言い、「昔は好き者がある程度いて、何とか商売にもなっていた」というようなことを話してくれた。
 二〜三日後再び雨降りになり工事が休みとなり、古道具屋へ行ってみた。老爺はいなく奥さんらしい人が出てきて今日は留守にしていると言い、「ウチは商品のことは判らない」とすげなく配(あしら)われた。猪口だけは持たせて見せてくれた。
 数日してまた雨降りになり、行く所もなく宿から傘を借り古道具屋へ行った。老爺は再び訪れた私をみて若かった頃の話をしてくれた。大阪や広島で仕事をして、生まれ育った所へ戻って来たとのことだった。以前には気が付かなかった時計の置物や印材等もあった。行く度に私は老爺の話を聞く側にずっといることに気がついた。そして茶道具類のことや紐の結び方、作法の話などをしてくれたが、私の判るものは全くなかった。「ガラスケースの隅の猪口はいくらですか?」と訊ねると、「キズ物なので売り物でない」と言っていた。「なんでそれが良かなのか?」と聞かれたので、「土産に猪口なら小さくて荷物にならないから」と私は答えた。この老爺は会社の作業服姿の私をどんな眼で見ていたのだろう。古い物がただ単に好きということだけは判ったらしい。
 何日目かの雨の日に行くと、突然「今の世の中、人や物を大切にするということを皆忘れている。相手のことを思えば自分の我をおさえることだ」と言った。何か商売のことでうまくゆかなかったのかなと思った。この老爺は姿や服装ではなく人の心の佇まいを見ているのだなということが何となく判った。
 私は持っていた工事用のカメラで老爺の笑った顔の写真をいやがるのを無理に何枚か撮らせてもらった。数日して仕事も終わり、千葉へ帰り、フィルムを駅前のカメラ屋に出した。
 出来上がった写真の最も良く写っている笑顔の写真を額に入るくらいの大きさに引き伸ばし、古い角が皺になった四国の店の広告入りの名刺宛へ数枚送った。秋口三〜四ヶ月して荷物が届いた。手紙もなく猪口が十客入っていた。四国の古道具屋からだ。四国の工事現場長期出張の頃、古道具屋へ雨の度に行ったことが思い出された。あの時暇つぶしか話し相手が欲しかったのか、亡くなった親父に何となく似ていたのかも知れない。老爺の方でも息子のような感じで私を見ていたのだろうか?
 十客のうち三客は欠けたりヒビが入っていたが、七客はほぼ無キズだった。
 図書館で借りてきた陶磁器の本に似た猪口が載っていた。驚いたし何か嬉しくもあった。製作期一七九〇〜一八二〇頃と記されている。本当に古い物だったのだ。何かとんでもない品を受け継いだように思えた。あの頃の春の雨の日が、老爺と古い猪口とを引き合わせてくれたように思え、不思議な縁を思う。
 老爺が若かった頃の話、食糧難で苦労した戦後の話などしてくれた老爺とはもう二度と会うことはないだろうと思った。
 家族の祝いの日や友人が来る度にこの猪口で酒を出している。いつかこの器で酒を飲んでいるとどことなく輝いて見えた。老爺とどこかで心が繋がっているようにも思え、写真と猪口が交換できたのだなとも思え、老爺の好意が実感できた。
 「四国の爺さんありがとう。大切に使わせてもらっているよ、天明色の猪口を」と心で思った。白抜きの鷺も踊り上がるようにも見える。そして本当に優品は洒落た店にもあるのだろうが、地方の鄙びたような街にひっそり眠っている。それを探し出した時の方が感動は何となく大きいと思った。


一期一会(その3)
松沢 善裕 
 機会あるごとに「私は焼き物が好きです」と言っていると、思いがけない知らせも入ってくる。
 ある時、従兄弟が「焼き物が好きなそうだが、ぼくが灰皿代わりに使っている丼があるので、あげるから取りにおいで」と言う。わけを聞くと、「昔、会社で整地をしている時にブルドーザーがひっかけて出てきた。傷もなくきれいなので社屋の玄関に飾っていたが、建物を改修することになり、ほこりも被った状態だったので、捨てようという話になり、灰皿にちょうどいいと思いもらってきて使っている」とのこと。「丼かぁ」と思ったが、折角の誘いなので訪問してみた。
 「ちょっと待って」と言って二階に上がった従兄弟が、灰をふきながら降りてきて、「これだよ」と差し出した品を見てびっくりしてしまった。外側に蓮弁が陽刻された青磁の鉢ではないか。「これは宋の青磁の鉢で、多分鎌倉時代ごろに博多に輸入された貴重な品で…」。興奮して、ありったけの智識を動員して説明した。すると、傍らで黙って聞いていた伯父がポツリと一言。「そんなに貴重なものなら、大切にしなきゃならんな」。かくて灰皿は、桐箱に納められ家宝となってしまった。


ゴミタメから拾った時計
浅川 廣吉 
 骨董を集めはじめた1970年代後半の頃である。当時は高度経済成長期であり消費が美徳といわれた時代であった。この頃は少し古いものが否応なしに捨てられた時代でもある。給料も少なく骨董に投資できる額も限られていたため、ガラクタのような物ばかり集めていたが、タダより安い物がないことを悟り、やがてゴミ集積所まわりをするまでになった。
 そんなある不燃物回収の日、とあるゴミ集積所を覗くと八角時計があるではないか。早速乗っていた自動車に詰め込み、意気揚々と引き揚げた。家へ帰ってみると、文字盤にアメリカのウオーターバリー社のマークがあり、同社の製品であることが判明した。文字盤もそんなに傷んではいない。振り子室部分の窓には水兵の絵ガラスがはめ込まれ、この絵ガラスにも傷みはない。おまけにゼンマイを巻くネジマキもちゃんと振り子室に入っている。ゼンマイを巻いてみると、カリカリと心地良い音をたてて巻かれ、ゼンマイが破損しているようなこともない。早速壁に掛けて動かしてみるとちゃんと動いて、振り子が止まる気配もなく一週間以上は動いている。当時は資金がなく時計のコレクションは八角時計が主なものであったが、この拾った時計は当時の時計コレクションの中でも相当質の高いものであった。
 それから五〜六年もした頃であろうか。この頃になると給料もアップし、骨董品に貢ぐ軍資金も多くなり、コレクションの質も大分向上してくる。蒐集する時計も八角時計やダルマ時計からユンハンスの時計へと移り変わる。それまでにも何台かクズのような時計や八角時計などを下取りに出してより質の高いユンハンスの時計などを求めてきたが、いよいよこの拾った時計も下取りに出すはめになった。行きつけの骨董屋へ持ち込むと何と一万八千円の値をつけた。これは結構な拾い物をしたもんだと早速手放した。その代金+αでその時買ったユンハンスの時計も今となっては下取りに出してしまい手元にはない。
 コレクター暦三〇年以上になるが、唯一ゴミためから拾い、かつ換金できたのはこの時計だけである。今考えると、当時のゴミ集積所には色々なお宝が転がっていたに違いない。『集』を見ていると真空管式のラジオやテレビに相当な値がついているが、こんな物もあったような気がする。
 骨董の知識が豊富にあり先見の明があれば、あの頃のゴミ集積所からは相当なお宝を手に入れることが出来たに違いない。今でこそテレビをつければ「開運!なんでも鑑定団」、書店を覗けば『集』に代表されるように、骨董に関する知識が豊富に得られる時代ではあるが、当時はこのようなテレビ番組もなく雑誌もたまに発行される程度で、骨董に関する知識は殆ど得る術がなかった時代である。ところが今は、その物がどういった品物で、値段がいくら位するものなのかつぶさに分かる時代であり、一見ガラクタのような物でもモノによっては、相当な値がついている物もあるようである。今捨てられている物の中にもお宝があるかもしれない。私はこうした物に対する知識や先見の明に乏しいが、詳しい人であればお宝の発見があるかも知れない。何といっても元はタダであり、こまめなゴミ集積所巡りが手っとり早く又財布の中身を軽くすることもなくコレクションを増やす一つの方法かもしれない。
 これが、コレクターになりたての頃の少し嬉しい、そしてちょっぴり恥ずかしい思い出である。私がこれまで下取りに出してきた数多くの八角時計、ダルマ時計、その他種々雑多なガラクタどもは、納まるべき所に納まっているのだろう。それともまだ骨董屋の間を右往左往しているのだろうか。


平和な平和島掘り出し物物語 
堀口 敏雄 
 せっ、せんえん…? 店の前を通り過ぎようとして思わず足を止め、もう一度値札を確認する。平和島でのある日の出来事である。「小柄だァー」。私の趣味である刀剣とその小道具についてはその値段はゼロひとつくらいの間違いは日常茶飯事である。たとえば、立派な金象嵌入りの鍔を手に、なけなしの二万円を払おうとしたその瞬間、「二〇万! 十八万でいいよ」。店の主人の声に思わず頭ん中が真っ白になり、改めて自分の鑑識眼の無さに赤面することも度々である。でも、今、目の前にある小柄は間違いなく千円の値札がついている。「いち、じゅう、ひゃく、せん…」。確かに千円である。そりゃあ、千円台の小柄など新物に決まっている。大体、新小柄の相場は四〜五千円と決まっている。三所物コレクターにとって新小柄などは偽物というよりもむしろレターナイフとして扱われているようだ。でも、私にとって刀の拵えをちょっとインテリアとしてかざる時、せっかくの小柄櫃がからっぽではなんとしてもさびしい。どうせ私の身の回りには刀の目利きなどいやしない。ましてや、小柄や縁頭など刀のおまけ程度にしか見ていない連中である。「素人相手に見栄を張るには充分だァー」…早速言い値?で購入。掌の中でその感触を楽しむ。魚子地が指先に心地よい。しかも中央には金象嵌?…で龍の高彫り、ニヤニヤしながら帰路に就く。荷物の整理ももどかしく愛刀のもとへ、早速その小柄櫃に金象嵌もまぶしい小柄をいれている。…「アラッ・アララッー?」。なんと龍の金象嵌があまりにも見事すぎて鍔の櫃につっかえてしまうのだ。
 もうがっかりするより笑うしかない。多分、この小柄の作者も「しまったー」と一瞬思ったに違いない。考えてみれば、この小柄に合わせるにはスカスカの透かし彫りを鍔に施さなければならないだろう。よく見れば私が魚子地と見たのは旋盤加工で言うところのローレットがけのようである。金属棒のグリップに施す滑り止めのあれである。自分の目の節穴ぶりをなげくよりもむしろ、彼、この小柄の作者に親近感さえ覚えてしまった。思えば、私自身も昔、こっそり小柄の製作に挑戦したことがある。
 鏨で魚子地をこつこつ打ち出し、それを折り曲げてなかごが入るように空間を出し、ロウ付けをし、いかにその溶接箇所をごまかすか苦労したものである。
 骨董の世界では、新物や素人細工はとかく軽視されがちのように思われる。特に、刀剣界では「蔵出しの刀の錆には絶対にさわるな」「柄巻きは素人には絶対無理」…などと。
 だが、今名人と呼ばれる人たちも最初はパシリから始め、みようみまねで作品を作り、また壊しては作りを繰り返したに違いない。くだんの彼が師匠についているかどうかわ私には想像できない。まあ、師匠がこれを見たならば、多分、骨董市にこれが出ることはなかったにちがいない。彼がもし、この「しまったー!」を教訓に新物金工士になることを想像すれば楽しいねー。
 とにかく、今回の千円の買い物は私を充分に楽しませてくれたと思っている。骨董バンザイ、安物買いバンザイ、失敗もまた楽し…かな?


皇女和宮の月宮様
地島 博秋 
和宮一行は京都を出立。
はるばる中仙道を吾妻道へと下ったのである。高貴の姫宮さまの御降下はこの時に始まったものではなく、その殆どが中山道であった。しかし、この時に限っての厳重な警固は、幕末の人心の動揺が頂点に達していたからだといわれている。
途中各宿駅に課された条々は以下の通りであった。
(一) 三日間は、上下旅人の通行止め。
(二) 二階雨戸を締め切り目貼りのこと。
(三) 表には水を満たし天水桶を置くこと。
(四) 表屋根に留石板を添えること。
(五) 当日はたき火無用のこと。
(六) 表障子を明け払い奥まで見透かしにすること。
(七) 掛看板、わらじの類ははずしおくこと。
(八) 当日水車其他鳴物差止のこと。
(九) 身元不審人等置かぬこと。
全道中警護の藩12という、異常な大勢。、途中宿次ぎの藩はなんと29にも達したという。更には、、伝馬の人夫約3万人という前代未聞の延々たる大行列であった。
さて、和宮道中一行は難所の碓氷峠も無事越えて、中山道は板鼻宿に逗留したのである、板鼻宿は今の群馬県安中市板鼻である。ここで、本陣木島家の書院に入り仮の宿をとらせられることとなった。木島家の先祖は奥州平泉の豪族藤原秀衡の末裔と伝えられ、板鼻への土着は慶長の頃であると言われている。
御寝なされたお室の床板の厚さはおよそ3センチメートルの厚い一枚板で、この床下に伊賀者といわれた警護が隠れて警護したと言われる。その、木島家住宅もは今はすべて取り壊されてしまい、面影も無いが当時は入母屋作りの表門、玄関式台付平屋建ての豪壮な建物だったという。今はその極く一部が、板鼻公会堂として保存されているのである。
さて木島家書院に仮りの宿を取られた和宮は御年16歳であった。まだ稚き和宮はここで、なんと旅の緊張もあったのか、初潮を迎えたのである。驚き恥ずかしさに言い出せぬ和宮。しかし老練の女官、庭田はふっと気が付いた。そうだ、姫様はもう16歳、そのことがあっても不思議はあるまいと。
「和宮はん?何でも話してくれやす?」
庭田の唐突な問に和宮は答える。
『かねて聞き及びし、月のものがわらわにもついに来はったぞよ』
庭田すぐに答えて「それはおめでたきこと。嫁ぐ前に来はったことは何かの吉兆かもしれませんぞよ」というと、早速容易万端指示した庭田はお付きの女官どもに命じて処置怠りなくとりおこなったのである。和宮の着替えと清めが終わるとお付の、庭田をはじめ、女官たちは、その、御不浄物を、絹のさらしにくるみ、木島家の家令に命じて本陣近くの畑に埋めた。
次の日、和宮一行は無事に出立して行ったが村の人々は、そのことをもれうかがって、恐れ多くも、賢くも高貴の姫宮さまのその御不浄物の埋められたところに、石の宮を建てて祭ったのである。それが今も、安中市、板鼻公会堂の裏に、月宮さまとして、残っている小さな、石の祠である。
御年16歳の皇女和宮は翌年(1862年文久2年)2月御婚儀あらせられ、文久3年夫、家茂は上洛、勤王派佐幕派・攘夷・開港の大動乱の中に新婚の生活もわずかに5年、21歳にして早くも寡婦となられ静寛院となられたのである。やがて京都へとお帰りになられ、その後10年にしてご他界された。佳人薄命花の命の短さを思わずにはいられないというべきであろう。
なお、板鼻公会堂は今、「和宮記念館」として、当時の,泊まったままに、保たれて保存されている、和宮の履いたという草履も大切に、保存されている。長道中に履きやつしたぞうりをこのとき江戸目前ということで、ここで新しいのに履き替えたので古い草履を残していったのである。木島家では大切に保管したのであった。
そんな木島家も今は子孫も絶え、豪壮な建物も取り壊されて、ごく一部が板鼻公会堂として残されているばかりとは、時の無常を思わずにはいられない。


古美術讃歌
松岡 徳峰 

「人形」
今夜も会える 楽しさに
辛い仕事も 気にならず
昔なつかし アンティーク
磁器人形の 白い肌
瞳見る度 癒される

御所や公卿から 愛された
白肌ぽっちゃり 可愛くて
武将も愛す 子授けと
子の成長を 祈願した
御所人形の 愛らしさ

春は三月 雛祭り
初孫の為 創りしは
雛人形は 木目込みで
祖母の愛情 込められた
成長した娘《こ》 愛しがる
「陶磁器」
茶室に憩う つわものは
何時か天下を 盗ろうぞと
意気込む武士も しばし茶を
そんな茶碗に 詫び寂が
今でも心 癒される

茅葺き家《いえ》の 故郷で
母の手作り 稲荷寿司
蛸唐草は 古伊万里の
大皿盛られ 母の味
先祖伝来 染めの磁器

茶室の壺は 自然釉
口元薄い 平安期
季節の華を 投げ入れる
数百年の 時代付き
歴史の味が 素晴らしい

「刀剣」
誰の物だか 不明だし
どんな時代を 見て来たか
経験したか 判らねど
この刀剣の 地肌には
刀匠の技 冴えわたる

武士の魂 刀剣は
生死を賭ける 物であり
命を託す 切れ味に
刀匠の技 冴えわたり
今でも心 引き付ける 

戦国の世の 刀剣は
所持する者の 魂だ
明日の事など 判らねど
故郷村人《くに ひと》の為 命がけ
武将の心 垣間見る






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