更新情報を掲載しております。
お探しの骨董品を見つけます。骨董・古美術探し物相談室。
古美術品の修理・修復を承ります。
骨董笑日幸美大賞大募集
骨董品・不要品・遺産整理の処分・買取・販売の事なら集出版社・販売流通支援部にお任せ!!
煥乎堂骨董舎
骨董品が欲しい方はこちら。
古美術名品「集」を欲しい方はこちら。新刊情報や、取扱店などの情報も掲載しております。
骨董店/催事をお探しの方はこちら。
骨董品のキズの見方や、歴史等を知りたい方はこちら。
当サイトへのご意見ご感想はこちら。
相互リンク集です。
集出版社の概要です。
当サイトの利用規約です。
当サイトへのお問合せはこちら。

(IEのみ)

ご意見/ご感想の方はこちら

「骨董 笑日幸美 大賞」トップはこちら


「骨董 笑日幸美 大賞」2009年度集44号第4回作品


古灯器蒐集四方山話
あかりの資料館 館長 指出 朋一 
 古灯器の蒐集を始めて、平成22年で23年目に入る。昭和62年に、本屋さんで何げなく手にした本が、「あかりの古道具」坪内富士夫著であった。私の職業も火を使う関係で親近感を持ったのが事の始まりである。当時はバブルの頂点であり、株価も38000円位の記憶がある。古道具屋さんに行っても、株の話で持ち切りであった。又、空前の骨董ブームで金が有り余っていた時代である?古伊万里の高価な大皿や刀剣などが主に動いていた時代であった。古灯器類は動きが鈍く、価格も現在と比べ安価であり、例えば、現在高騰している瓦灯も一個3000〜10000円位であり、火打ち金にしても500円位であった。しかし、店により価格も現在と同様、様々であった。先ずは瓦灯のエピソードであるが、「のんきや」さんと言う店から昭和63年に、瓦灯らしきものが入ったと電話があったので、半信半疑で行ったところ、正に瓦灯であった。その途端、息が止まるのではないかと思った程である。「のんきや」さんが、品物(瓦灯)を見せて、「これが瓦灯かい。」と尋ねたので、私は、否やこれは手焙りだと誤魔化して買った。また出たらお願いしますと何度も頭を下げて逃げ出す様に帰って来た。その間、どの様に運転していたか全く記憶がない。その夜、一杯呑みながら本日の収穫の勝利を味わっていた。俺は頭がいいんだなーと思いながら?翌日は二日酔いであった。数日後に電話があり瓦灯らしきものが一つ出たとの事。早速スピード違反の速さで行って見た、確かに瓦灯らしきものがあった。なんと、それは正真正銘の手焙りではないか。値段も前回の瓦灯と同価格(10000円)であり、買わなければ後が続かないので渋々買った。帰りの運転は前回とは違い元気がなく、車の中で、俺よりやはり「のんきや」さんの方が頭が良いのかなーと思いながら、手焙りを連れて帰って来た苦い思い出がある。
 私の蒐集の80%位を御世話になったのが、上記の「のんきや」さんという秩父市郊外の古道具屋さんであり、主人は新井さんという。この店の仕組みを説明すると、先ず、農山村などから直接買い出して来る人を「買出しや」さんと呼んでいる。買出しの品を全部買うのが上記の「のんきや」さんで、秩父市近郊でも8人位の「買出しや」さんがいたので、可成の量が出たものである。その分だけ早く処分しないと金が行き詰まるので、他店より安価で処分した。又、業者が「のんきや」さんから仕入れて販売もしていた。あれから20数年、現在でも休日は「のんきや」さん、通称「のんきや病院」通いの重病人である。
 話は横に逸れてしまったが、以上の店が主流の蒐集先である。「のんきや」さんの「買出しや」さんは、主に新潟や長野方面の農山村等が主力であり、出て来る灯火具は主に民具造りのものが多い。江戸や上方(京都・大阪地方)にある様なものは無く、人々の温もりを感じるものである。しかし、「のんきや」さんも、灯火器が専門ではないので、レプリカが入って来ても解らない事もある。例えば、織部焼風の急須型のひょうそくが良い例である。本人も型で判断をし、古い物と思って買ったのであろう。それを当時未熟な私が買い、宝物のように大事にしていた。ある時、群馬テレビ(平成1年)の出演時に持って行き、灯火のストーリーの中で見せ、司会者に、随分綺麗なものですね・・・と言われ、未使用品ですと説明したのを今でも後悔している。何故かと言うと、テレビを見ている人達は時代ものだと信じているからである。この手のものは現在でも造っているし、又、蒐集家が知らずに大事にしている。油タンクの中が30m/m以上の深いものは先ずレプリカであろう。(種油は吸上げ不可能)磯部焼風の急須型や南蛮人燭台・瓦灯などのレプリカが沢山出ている今日である。古い時代のものが沢山ある筈がない。日本骨董大図鑑に、「とりわけ名高いのは、織部(桃山・江戸初期)の南蛮人型の燭台であろう。これぞ灯火器中の逸品というところだろうが、世にこれほど写し物のみが横行しているものもないと、承知してかかるべきである」織部の灯火器全般について言えることだがと書いてある。(平成4年に、時代物の織部焼急須型ひょうそくが20万円であった。南蛮人燭台ならば数百万円であろう)どんな下手のものでも本筋のものを持つ事が必要であり、勉強にもなる。レプリカなどを時代物の中に入れて置くと全てのものが駄目になり、コレクターの人間性が疑われる。そのレプリカの問題で思い出したのが、平成5年6月末日である。例の如く、「のんきや」さんから帰って来た午後1時頃であろうか、静岡市のK夫妻が来館した日である。話によると午前2時頃静岡市より、灯火器の蒐集に〈群馬県骨董会館〉に来た帰りとの事。(前にも何度か〈群馬県骨董会館〉の帰りに来館したが、私がのんきや病院に通院中でいなかった)灯火器の蒐集を始めて2年という。その後、蒐集したものを電話やFAXなどで話している内に、蒐集品の中に疑問のものがある様な気がするので、見て貰いたいと言うので見た事があった。しかし、筋の通った物が大部分であり、織部焼などのレプリカはなかった。雀型の燭台や豆ランプのホヤのレプリカなどがあった。ホヤの金魚鉢型した時代のものは重さが約10gで、最近レプリカブームで造ったものは約20g前後であると、事務所のハカリで測り説明した記憶がある。K氏は一代で電気会社を設立し成功した人で、流石に凡人とは違い、良い訳はせず素直にレプリカを認めた。K氏とは、現在、昔の灯火具に実際にあかりを点灯し、当時のあかりを再現している、日本唯一の由比宿東海道あかりの博物館の片山光男館長である。【注】(灯火器を常設する博物館は全国でも数館あるが、点灯し再現している館をいう)それでは、どの様にして時代ものを知るかというと、私は、浮世絵・草双紙、特に江戸時代の発掘品などを参考としている。博物館や文献も良かろうが、100%と信じてはいけない。やはり、自身で研究する事が一番である。そして、実際使用している研究者同士の報告なども重要であり、想像の世界より実際の世界に入る事が一番の必要性である。かの有名なトーマス・エジソンは、他の人が書いた文献などを見て、自身でもテストしたという。流石は偉大な人物である。私の蒐集仲間である下山俊夫氏(桐生市)は、非常に物を見る眼識を持っている。彼は一介のサラリーマンであり、月給を全部使える身分ではなく、一部であろう?裕福なサラリーマンとは違い真剣である。金の力で買う人ほどリスクが高いのではなかろうか?それは自分自身が時代や物に対して解らないから業者を信じてしまう。しかし、私の苦い体験から見ると業者が悪いのではなく、業者も知らないのであろう。主に型などで想像し判断するだけと思えばよい。特に、ランプの口金とホヤの違いが図録などで沢山見受けられる。なんでも口金とホヤが合えば良いと思うのであろうか、点灯すると違いが良く解る。元来、日本の灯火器の歴史は焚火・松明・ヒデ鉢・篝火・松やに灯台・竹あかり、灯籠・灯台・燭台・ひょうそく・瓦灯・行灯・提灯・ランプ・ガス灯・電灯などである。蒐集は数ではなく、筋の通った時代の物を持つ事であり、それが後世に残すコレクターの使命感ではなかろうか。又、文献などに於いても実際に使用して始めて書くものである。例えば、火打ち金による着火は、天候などによっては、たやすく着火するものではないと書いてあるが、想像で書いたものであろう。私が作る〈火口・・・着火材〉は、雨であっても、いとも簡単に着火する、昔の人は、その位の〈火口〉は作ったものである。例えば、平成11年4月28日にオープンした神戸らんぷミュージアムの企画などを担当した、電通テックの坂本子?佳子さんより、『先日いただいた「火口」は展示の面でも映像撮影の面でも大活躍し、おかげさまでその部分の充実をはかることができ、たいへん感謝しております。』と、手紙を頂いている。実際に私自身で「火口」を作るから書け、又、現代の知らない人達に少しでも役に立ち、嬉しい事である。灯火器に於いても、ひょうそく・たんころ(種油・漁油)・カンテラ(石油)などは、燃焼口の径で判断するものであるが、区別なく、ひょうそくと書いてある。やはり、明治時代からは分類をしなければいけない。実際に芯を入れ、燃やして見ないから解らないのであろう。(陶製のもの)石油の場合は、3m/mφ位の芯であり、種油などは6m/mφ〜9m/mφ位である。発熱量と理論空気量の違いである。又、双方共、毛細管現象で油の吸上げ可能の高さが石油と種油は異なり比重(濃度)の違いである。石油ランプの「タンク」と種油の「火皿」の深さを見れば誰でも解る。石油の場合は100m/mH位で、種油は25m/mH位の吸上げだ。私は数ある灯火具類の中では、特に木製の民具が好きで、それは底辺で活きた人達の温もりを感じるからであろうか?民具で始まり民具で終わるという言葉がある様に、灯火具も同じであろう。民具は多種多様であり、特に木製のものが好い。量産品のものは型に限度があるが、手造りの民具などは型も多く、山村部の人達の生活の知恵が滲み出ている。又、実際に灯すと、これが実に個性的な姿に変わるものである。現今でも、家具などの調和品として堂々と活きている。金属物や量産品では民具と比べ、なんとなく不調和が見られる。当館の見学者のアンケートによると、洋灯(石油ランプ)は庶民が使用した紙傘などには感動するが、意外と高価なものは感動が無いようである。やはり、民具関係のものが一番感動するという。何となく親近感があるのであろうか?実際に火打ち金などで点灯させ、当時の生活の体験で見学者が感動をしているのを見ると、蒐集して良かったな・・・と感じる、今日この頃である。又、入館無料で子どもを含めた団体などに展示解説を続けた功績が認められ、ともに高崎市から2006年に生涯学習まちづくり賞、07年には文化財保護賞を受賞した。


杯洗に惹かれた心の風景
吉田静司 
 東京支店から岐阜県に配置転換になった。勤務先で秋の産業祭の町の有線放送案内が朝から何度も流れ誘われて町役場の広場迄行くことにした。人口が少ないと思っていた地方の町なので、たいした事はないと思いきや子供達や人で会場は溢れていた。焼鳥やイカを焼く煙も風にたなびいている。蛍光色の揃いのジャンパーを着た人が会場の案内図を配っているのをもらった。
 会場は様々な物が並べてありそれぞれ旗を上げている。農協のハッピの人達が特産の野菜、果物、町内会婦人部の手作り食品、自家製の椅子テーブル、趣味で作られたアケビカゴ、古い布で作ったバック、植木、花、古本、フリーマーケットのような感じだ。古い昔使われていた道具類、器や皿も並んでいた。
 定年間近のリストラ組の自分にとって、全く知り合いの無い町に住み初めて見る光景だった。俄商人になった人達は大声で呼び込んでいた。古い道具等並べて売っている所へ立ち寄り昔見た事のある徳利があったので手に取り値を聞くと、底に値が書かれていて少しキズ有と書いてあった。出店の人はその価格よりさらに安くしてくれたので買った。
 この売り場は人も集まらず売れてないのかなと思った。話を聞くと店の人は本業ではなく趣味が高じて参加しているとの事で、景気が極端に悪くなり仕事がないと嘆いていた。
 又一ヶ月後隣の市の廃校の小学校でもバザーを行うとの事で場所を聞き行く約束をした。一ヶ月後日曜日に小学校へ行くと若い人が台に並べてある古い物を探すように品物を見ていた。訊ねてみると、昔爺さんが使っていたお猪口や徳利を集めているとの事、「特に杯洗が好きや」と言っていた。「杯洗て何?」と聞くと「酒を飲んで猪口を洗ってから相手に渡す猪口洗いの器だよ」と言う。近くにあった欠氷の器を持って「これを大きくしたような型や」と言って教えてくれた。丁度ガラスのコンポートのような形をしている。「これかあ」と思い出店の人に聞くと「今日は持って来てないがたしか家に一つ二つあるなあ」と言った。「今度見せてください」と言うと「いつでも家に来なよ。但し土曜日の午後がいいな」と言った。そして家迄の簡単な地図を書いてくれた。
 次の月の土曜日、地図をたよりに行ってみた。工場の様な建築屋と大工作業場だった。近くに民家もなく犬が繋がれて吠えていた。
 伐木の並んでいる間で年配の人や様々な格好の人が集まっていた。
 出店していた人は建築屋さんで古い家の取り壊しの時、家主が捨ててしまう道具や古い民具とか鬼瓦や器、皿、昔の生活道具をもらってくるとの事で今は燃やせないので町でも捨てられた物の処分に苦労しているとの話だ。
 私は関東からこの先の工業団地の工場へリストラ転勤で九月に引っ越してきた旨、名前を言って自己紹介した。聞いてない人もいたが皆各々持ち寄った自分の品の話の続きを始めていた。それぞれ何らかのコレクターだという事が判った。何の趣味でも年齢は関係なく集まるものだと思い、マニアといえる人が少なからず田舎でもどこにでも居る事が判った。
 廃校で会った若い人は工務店の人と杯洗を見ていた。「面白い形をしているな」と思った。若い人は小振りの杯洗を持ち値が折り合わないのか迷っていた。その杯洗を受け取り見せてもらった。今迄使った事のない形だった。
 聞くと一ヶ月に一度集まる同好会的な所で役所勤めの人もいた。彼は硯と印材を集めている事を知らせてくれ、老け顔の人は元大工さんで箱物、中年の髭の人は書画、ここの人は様々な物を集めている人達で面白いと思った。機械部品の工場を営んでいるという人は刀と鍔を探しているとの事、主の建築屋さんは取りまとめ役で「古い物が好きな人は千人に一人、物を買う人は一万人に一人だよ」と言って「不景気で古い物は今が買い時」と言った。
 自分を知っている人はこの地方には一人もいない。仲間入りさせてもらった事に何かの繋がりか縁があったのだろう。会社以外の友がほしかったし話相手も無く寂しかった。
 妻は「くだらない、そんな物集めてどうするの」と持ち帰る度に言っていた。私はリストラされた先の見えない焦燥に駆られた唯一の楽しみが見つかった事が判らないのかと思った事もある。建築屋さんの作業小屋で各々の人が小さな手の届きそうな夢を見ながら様々な趣味の人と会い、世間話の中で村や町の歴史の事、商売の事、山の話と話題は尽きない。
 私はこんな地方の競争のないようなゆったりした時を初めて持った事を感じた。初めて見た杯洗を教えてくれた若者のように蒐集しようと思った。染付の器の中に時代があり、作る人がいて絵を描きそれで生活していた人達がいたという歴史が判り、今では使われなくなった器や皿に美しいものがあるのでは?と思い遠い昔の生活を想い描いた。地方の何もないような所でも何回か酒宴があり華やかな宴で杯洗を挟み「お流れ頂戴」というような事を言いながら酒を酌み交わす状景を想像した。ゆったりした川の流れのような時の流れを思わずにはいられなかった。
 西方向遠くに鈴鹿山脈と伊吹山が白く初冠雪があったのか白く見えた。谷間の作業場の先の庭に盛を過ぎた菊が白く咲き揺れていた。
 この建築小屋に集まる人達と都会での生活の落差を感じながら生きるという意味について学ばねばと思った。そして使われなくなった杯洗と自分を重ね見て愛惜を感じた。不景気の世で生きる希望と気力を湧きたたせるような染付で古を偲ぶ絵付の杯洗を手にしていた。そしてすぐ近く迄、冬が近づいてきている事に気付いた。


一期一会(その5)
松沢 善裕 
 十五年ほど前のことになるが、「湯布院に行きたい」と小学生の娘が言い出したので、「よし、今回は少しリッチな旅をしようか」と有り金をかき集めて家族三人で出発した。
 高速道路を降りると、湯布院の入り口に骨董街がある。湯布院に行くたびに寄っているのだが、何か予感したのか娘はいやがった。それを「折角だからのぞいてみよう」と説得して店を回ってみた。一軒の店に入ると、古い木彫りの仮面が十個ほど壁に並べてかけてあるのに妻が気づいた。そしてじっと見入っていたが「これ全部ほしい!」と言うので、店主に尋ねてみた。「これ、どこの仮面ですか?」「インドネシアのバリ島で実際に祭りに使われていたもので、三十年ほど前に、私が求めてきたものです」との答え。値段を聞くと、一個二万五千円でいいとのこと。王や女王をはじめ、人の表情や表現も素晴らしい。「今、手に入れないと二度と手に入らない物ばかり」と妻は言う。そこで、二人の財布のお金をかき集めて、五個選んで分けてもらうことにした。
 代金を支払い店を出ると、娘がいきなり泣き出した。「一体どうしたんだ?」と聞くと「お金をみんなつかってしまったから、湯布院の街に行っても、何も買えなくなった!」と言う。「そんなことはないよ。お前のこづかいはちゃんと、残してあるからね」と、あわてて小銭入れの百円玉十数枚を娘の財布に入れてやると、ちょっとは安心したようで泣きやんだ。
 宿泊予定のホテルでは、評判のレストランのおいしい夕食を楽しみにしてきたのだが、そんなお金はなくなってしまったので、街に出て豆腐料理の店で安いメニューを選び、家族で夕食を始めた。すると娘が一言ポツリと言った。「『貧乏な貴族』(お店の名前)で貧乏な家族がご飯を食べている」妻と顔を見合わせ、苦笑いするしかなかった。
 翌日は、街を散策した後に家路をたどることになったが、ホテル代を払うと高速料金も残っていなくて、一般道をガソリンの残りを気にしながら走り、やっと家にたどりついた。娘にはリッチどころか、散々な旅の記憶として残っているようで、今でも当時を思い出しては文句を言われている。


小野小町無我無心像 
地島 博秋 

今は昔の事(平安時代の頃)
ある、霧深い初夏の朝まだき、前橋の(当時は上野国蒼海郷)釈迦尊寺に、笠を目深にかぶった一人の老尼僧が尋ねてきたという。
「私は小野小町と申すものでございます。祖父、小野篁のつてを頼りはるばる都より出羽の国を目指して旅をしております。つきましては道中、目を悪くて難儀しております。暫く当寺にご厄介にはなれませんでしょうか?」というのである。
住職はあらためて、まじまじと其の老尼僧を見たという。
破れ衣に頭陀袋を肩に掛け、腰は曲がり、顔はしわだらけ、一本の杖にすがりやっと歩いている。
これがあの、美人の誉れ高い小野小町とは、深草の少将を九十九日も通わせ続けたというあの、小野小町の成れの果てとは、もののあわれに胸ふたがれた、住職は老尼を快く庫裏に迎え上げ、介抱したという。
数日後、やや回復した老尼は、「どこかこのあたりに、目に効く薬湯でもござらぬか?」と問うた。
「おお、そういえばこの先の、鏑川の、小野郷(現、富岡市)にお薬師様の湧き水があって、そこの水で目を洗うと卓効があるときいておりますじゃ。」
小町はそれを聞くと喜んで住職にいとまごいしてお薬師様の湧水へ向かって杖を頼りに旅立っていったという。
やっとたどり着くと、そこには、お薬師様の湧き水が岩間から滾々と清冽な清水を湧き出させていたという。
小野小町は其の傍らに、藁や木々を集めて粗末な草庵を設け、毎日水で目を洗ったという。
そうして暫く養生するうち目も癒えた小町は、
「南無薬師諸病悉徐の、願かけて、身こそ仏の名こそ惜しけれ」そう詠じると、いずこともなく立ち去っていったという。
その後其の庵は、里人らに守られて「小町山普通寺」として薬師の湧水とともに村人の信仰を集めて栄えたといいます。
一時衰えたこともあったようですが、江戸時代に入ると、御朱印地三十石を賜るなど栄えました。
そしていつの頃からでしょうか?
富岡市の得成寺に一体の小さな、木像が寺宝として伝えられて居たのでした。
しわだらけの老婆が破れ衣に身を包み、しなびきった乳房もあらわなそのすがた、一本の杖を頼りに上を見上げて放心したように立っている其の像、
見るだに、醜怪といわざるを得ない、其の、老婆の木像、
それが小野小町の老いさらばえた姿だというのだ。
得成寺に伝わるところの、伝、運慶作、「小野小町無我無心像」である。

「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」 小野小町

『古今集』
人の命の哀れさよ、絶世の美女も時が過ぎれば老い衰えて、男たちも誰も見向きもしなくなり、目を病み、流浪の果てに出羽へと、破れ衣で、落ちのびていったのであろうか?

「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる」    小野小町

かってそう、情熱的に歌った恋愛歌人の姿はもうどこにもない。
人の世の無常と栄華のむなしさを思い知る遠い遠い昔の伝承譚である。



ある晩酌風景
浅川廣吉 
 専らの左党である。若かりし頃は日本酒党で骨董市などへ行っては、気に入った安いぐい飲みがあると、一つ二つと買い求め、その数も数十個にまでなった。ところが40歳を過ぎた頃であろうか。健康診断で血糖値が高いという指摘を受けた。人の話によると、醸造酒である日本酒よりは蒸留酒であるウイスキーや焼酎の方が体には良いとの由。そんな訳で晩酌は専らウイスキーになってしまった。それまで集めたぐい飲みは、コレクションの一つである船箪笥の引出しの中に眠ってしまっている。
 ウイスキーはオンザロックで飲むのが常であり、飲む器はロックグラスである。日本酒であれば大きめのぐい飲みやソバチョコでも抵抗はないが、ウイスキーとなるとやはりグラスである。だが、これ以外のものには和骨董を使っている。ロックで飲むとなるとどうしてもグラスの回りに水滴がつき、やがてそれが水となってテーブルに垂れ落ちる。これをカバーするためにコースターというグラスの下に敷く器があるが、このコースター代わりに徳利の下に敷く袴を使っている。骨董市で漆の物といえばお膳、お盆、お碗などが主で袴はそうそう見かける物ではない。店に並べばそれほど高いものではないが、中々良い出物はない。朱塗りや黒塗りの物から蒔絵が施された豪華な物まで色々あるようであるが、品物が出回らないだけにどのような袴が存在するのか見当もつかない。蒔絵が施されたものがあれば買うようにしているが、気に入った物はほとんどない。この中に今出来のカットされたロックグラスを入れて夕な夕なウイスキーを楽しんでいる。数年前、ある骨董市で堆朱の袴を見かけたが、その時は購買意欲をそそられることなく、買い逃したことがある。もうあのような袴にはお目にかかれないだろうと思っていた矢先のこと、最近の骨董市で木箱に入った2個組の堆朱の袴を掘り出した。箱には作家の名が記されていたが、箱を買う訳でもないため、中身の袴だけを求めた。店の主からは「箱も持っていったほうが良いですよ」と勧められたが、箱を貰っても邪魔になるだけであり辞退した。私が箱を辞退したのはこの時だけではない。ウン千円の品物を求めたときに箱が付いているような場合は辞退するようにしている。箱は中身の品物よりは大きく、それだけ置き場所に困るからである。今私の手元には3種類の袴があり、これを取っ替えひっかえして晩酌の友にしている。
 酒といえばツマミがなくては始まらない。ツマミなしには酒が飲めないため、ロックグラスと袴の脇には常に一品以上のツマミが置いてある。どちらかといえば和食党であるが、えてして和食は水分を多く含んだ食べ物が多い。このように、汁気の多い和食を盛りつける器として抹茶茶碗を愛用している。骨董市にいくと箱がない多分今出来の抹茶茶碗が千円単位で売られている。私が愛用しているのは専らこのような1個数千円の茶碗である。抹茶茶碗であればなんでもいいという訳ではなく、これらの安い抹茶茶碗群の中から気に入った物を掘り出して求めてくる。大きさはなるべく小ぶりの物が重宝する。ツマミはそんなに多く必要とはせず、あまり大きいとツマミと茶碗の調和が取れない。だが中々自分の気に入った物は見つからない。今持っているのは黒い半筒型のもの、それより少し小さめの志野焼風の同じく半筒型のもの、赤っぽい楽焼風の平べったいものの3個だけである。業者がいうには、いずれも茶道の世界では使いにくい大きさらしい。これに女房殿がこしらえた手料理を盛りつけて、仕事から帰ると、骨董のコレクションルームに引きこもって1人ウイスキーを楽しむのである。磁器の器も良いとは思うが、磁器は形が均一で変化に乏しく、1人で飲む時のツマミ入れとしては、手作り感のある陶器が馴染む。
 千円や二千円の茶碗であるからいつ割ってもよいと、他の器と同様に使っているが、不思議と割らないものである。女房殿には抹茶茶碗であることを言い含めてあるが、値段までは言っていない。彼女は抹茶茶碗とは相当高価なものと思いこんで大事に扱っているのかも知れない。これからも骨董市で気に入った抹茶茶碗があれば求めてくるだろうが、抹茶茶碗の収集家でもないことから、食器棚がこれで埋め尽くされるようなことはないだろう。
 ほかに骨董ではないが、晩酌の友としてこだわっている物がある。それは箸置きである。猫が好きで猫グッズを収集しているが、その中に箸置きもある。骨董市には瀬戸物店も出店していることがあるが、そんな時に買い求めてくる。箸置きであるからせいぜいウン百円の世界であり、遊び感覚で買い求められる。だが、この猫の箸置きもそうそうある物ではない。今手元にあるのは5〜6匹の猫の箸置きであろうか。したがって、私の晩酌の食卓の上は、切り子のカットグラス、黒漆塗りの蒔絵や堆朱の袴、小振りの抹茶茶碗、猫の箸置きの4点セットが定番であり、一人自分のコレクションルームの中でコレクションを見ながら、そして明日のコレクションに夢を馳せながら、ウイスキーと女房殿の手料理を楽しむのである。
 目下、一人酒用の小振りのデカンターを探し求めているが、中々気に入った物は見つからない。


私の迷拵えコレクション
堀口敏雄 
 これは、ご覧のように刀の柄に巻かれている鮫皮。(正しくはエイの皮)です。よく見ると頭寄りの方にまあるい穴が開いています。私の短刀のうち一振りをばらしてみた処、このようなものがみつかりましたのでみなさんに見ていただこうと思います。実は裏側から経木が裏打ちされており、表側から所謂、親粒と呼ばれる少し大きめの鮫皮が張られていたものです。柄拵を立派に見せる為に施すインチキ手法のひとつです。
 世の中にはよく写し、贋作、偽物、等いろいろなものが存在します。TVの鑑定番組などではよく正真、贋作などをめぐって一喜一憂する場面がみられます。鑑定依頼者自慢の一品が贋作だと評価された時の彼の落胆振りが面白く、番組を盛り上げているのは確かです。しかし、贋作を「帰りにごみために捨てる」とか、「地面にたたきつけてぶち割る」などと聞くと悲しくなることがあります。私なりの考えをいわせてもらえるならば、贋作のなかにもいろいろなドラマやヒストリーが隠されていてそれぞれ大変興味深いものがあります。
 例えば、娘を嫁にやる時、親が短刀を持たせたりします。両親が言うには「これは吉光です。もし、嫁ぎ先でなにかあったならばこれを売って足しにしなさい。」よくありがちな話です。そして、あとでこの短刀が贋作だとわかった時どうでしょうか?実家に抗議しますか?武士は喰わねど・・・と言われた時代にはよくあった話と聞いています。娘に嫁ぎ先で肩身の狭い思いをさせたくない精一杯親心のこもった嘘とはいえないでしょうか?とくに吉光、正宗、国広など言葉の語呂も良いので使われたと聞いています。
 又、こんな話も、拵えを注文する時に、立派に見える物が欲しいが資金が・・・などと言う時、鮫皮の着せ方を「腹合せ」から「短冊着せ」に変更したり、鯉口や縁頭の鼈甲を獣のヒズメに格下げなんてこともしばしば行われていたようです。又、鮫皮に似せて銅板に鏨で魚子地の模様、つまり鮫皮模様を打ち出した物を柄に巻きつけたりしたものなどもあり、これはこれで高く評価されているようです。これは偽物と言うよりむしろ注文主と職人の遊び心の合作、粋と見るべきでしょう。
 小さな骨董市や好奇者の間では美術館や刀剣店のガラスケースの中では見られないような面白いものに出会ったりすることがしばしばあります。愛刀家のなかにはこういったゲテモノを毛嫌いする方も大勢居られることも勿論承知しています。否、むしろこれらの方のほうが健全な収集家と言えるかと思います。でも、私の好みに限って言えば、「鍛冶平」のような職人が偽名を彫って目上の侍たちをからかってみたり、又、わざとなかご銘の一部を大げさに間違えて彫って人の鑑識眼を試したりする悪戯心が大好きなんです。こういった鍛冶平のような職人と酒など一緒に飲む機会があり、彼の自慢話など聞くことが出来ればほんとうに楽しいだろうな。などと想像したりします。ナカゴの偽銘彫りなどを研究して見るのも楽しいと思います。鑑定家の言う「鏨に勢いがある」「伸びやかで味がある」などの表現が実は結構あいまいだったりします。筆順と鏨では切る方向が違ったり、本物より偽銘のほうが堂々としてうまく見えちゃったり、ついには、自分で鏨を研ぎ、銘切りに挑んだりするのも楽しいと思います。
 話を元に戻し、この短刀の鮫皮ですが実に巧妙に作られていて今、バラしてみて発見した訳で、これが出来あがったころでは張り合わせた跡は見えにくいだろうし、そのオーナーは出来上がった喜びでそれどころではなかったでしょう。幸い、出し鮫拵えでなく柄巻きだった為、上から柄紐を巻けば隣の目貫の輝きに目が奪われてしまい簡単には見抜けないのではないでしょうか?この鮫皮も捨てるにはしのびなく自分の骨董人生を豊かにしてくれる教科書としてこっそり眺めて楽しんでおります。
 偽鑑定書や偽鞘書、なかごの偽銘等、高く売らんが為の悪意に満ちた贋作は勿論許せるものではありませんが、贋作の研究は奥深く興味深いと思います。でも、最初からよいものを集めたほうがお金の節約になるかもしれませんけど・・・ね?


山下財宝 それは存在するのか?
地島 博秋 
 第二次世界大戦(大東亜戦争)も、末期、フィリピン駐留の、日本軍総司令官、山下泰文は、戦況危うきことを慮り、フィリピン中央銀行の、地下金庫にあった、現地で押収した、金貨、銀貨、純金インゴット、ダイヤ宝石などを、安全な場所に避難させようと決意した。ある夜、密かに、軍用トラック50数台を、フィリピン中央銀行に横着けし、密かに積み込みが行われたという。そして、そのトラックの車列は静かに、どこともなく消えていったという。だが、これらの大金塊がどこに運び込まれたのか、はたまた、どこに隠匿されたのかいまもって全く謎である。なぜなら、軍事機密としてトップシークレットだったからである。それ以来フィリピンでは、だれそれがそれを発見して密かに、売りはらい、大金持ちになったとかのうわさばなしが、とかく、絶えない。それらの中で、一番有名なのが、マルコス大統領が、無名時代に、それを掘り当てて、政治資金にしてそのおかげで、あそこまでのし上がれたのだという噂話である。
 あるいは、一説によると、フィリピン中央銀行地下金庫は当時からっぽで、何もなかったのだという説もある。信憑性が高いのは、現地使用・交換用の為に急造されて日本本国から送られた、2万枚あったといわれている、いわゆる、丸福金貨だった、という話もある。丸福金貨というのは、戦争末期に、日本で作られた金貨で、今で言う地金型金貨のことである。メイプルリーフ金貨とかウイーン金貨とか、今、売られているあれと同様である。
 戦争末期、日本の軍票(戦時流通用臨時紙幣)も信用を失い、受け取りを拒否され、その対策として、現地華僑から、調達物資の購入用に急遽作られた地金型金貨であったのだ。重さは1オンス、約33グラム、直径30ミリ、貨幣の表面には大きな字で「福」と、刻印されているのみの単純なデザイン。裏には24K 1000の刻印。他に 「寿」とか「禄」と刻印したものも存在するという。時々、骨董市場などに幻の丸福金貨として出てくるが、後世に作られた、模造品が多いという。この金貨は刻印が「福」という一字が打たれただけの単純なものなので、模造は実に簡単だからである。したがって、専門家でも本物と模造品を判別するのは至難のわざという話だ。
 さて今でもなおフィリピンでは、探し続けられ、掘り続けられている山下財宝。本当に出てくるのだろうか?いや、もう出てしまって、見つかってしまっていて、闇から闇に処分されたという話もある。確かにもし、見つけても政情不安なあの国で「見つけました」と名乗り出たとしたら、とんでもなく身の危険が迫ることであろう。だからたとえ見つけても、闇から闇に葬られる確率が非常に高いだろう。いずれにしても、いまだ謎だらけの山下財宝伝説ではある。



Copyright (C) 2014 株式会社集出版社. All Rights Reserved.