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「骨董 笑日幸美 大賞」2010年度集46号第2回作品


犬の散歩で貰った膾皿
吉田静司 
 八年ほど前の事です。千葉県から岐阜県美濃市へ転勤になった。暑い盛に引っ越しの準備をして九月末に引越した。住居は四階建てのアパートの三階の角部屋だった。
 アパートの前にある古い和風の大家さんの家に挨拶に行くと二匹の犬に激しく吠えられた。
 三階のベランダから見る風景は遠くに高い山々、その前に細長く古い街並みの屋根、そして広々と広がる田んぼと秋の大空が見える。
 数日して部屋の片付けが終わる頃、休みの日の夕方年配の大家さんが三匹の犬に引っ張られるように散歩している所で会った。その時は人懐っこく尾を振り吠えなかった。
 晩秋の頃、長い庇のある蔵の入り口に繋がれた犬を休みの日に娘とよく見に行った。尻尾を振り寄ってきて撫でると手や顔をなめられた。余り構ってもらえないのか二匹ともよく懐いた。千葉に住んでいる頃、柴犬を飼っていたので扱いには馴れていた。犬が亡くなった時、妻はペットロス状態でしばらくの間気持ちが沈みがちな日が続いた事もあった。
 春になり、老齢の大家さんの体調が悪い時、頼まれて休日には二匹の犬の散歩を引き受けて、どの方向へ行っても続く田んぼの農道を気を紛らわせるように連れて散歩した。
 転勤で仕事も変わり、慣れない環境と馴染まない人の間でこれから先のことを考えると、暗澹とした気分になった。休みの日の犬の散歩は気分転換と心の癒しにもなった。
 休日に同年配の人達が、朝早く揃ってゴルフウェアを着てバックを持ち、一緒に行く車を待っている所でよく出くわした。そんな時、自分が友もなく連れているのが犬ということが何か淋しかった。
 田植えが始まる頃、犬の首輪から鎖が外れ三階の人の姿を見ると、玄関先まで駆け上ってくる事もあった。大家さんは「アパートにはたくさんの人が居るのに犬が懐いたのはあたな達だけですよ」と言っていた。
 犬小屋の前に小鉢のような器が二つあり、鎖で引っ掛け転がっていることもあった。日射しの強くなった日に器が転げ水がこぼれ、二匹の犬が舌を長く出しあえぐように見えた。外水道の所で器を洗い水をやると、尾を振り飲んでいた。
 小さな鉢をよく洗い、見るととても古いもののように見えた。数日して図書館へ行くついでに陶磁器の写真本を借りてきた。本を何となく見ていると、犬の水飲み皿とよく似ている器が載っていた。急いで帰り、犬小屋の所へ行き、転がっている皿をみると同じような紋様の小鉢で、本の中でナマス皿と記された器に見えた。もう一度よく洗い、大家さんを訪ねて聞くと「少し欠けているので犬の皿にしました」との事。そして「物置きにも残りが二つ三つありますよ」と言うので見せてもらった。ほとんど欠けやヒビが入っていたが、写真本にあったナマス皿だ。思わず「このヒビの入ったのを一つ貰えないですか?」と厚かましく訊ねると「もっと良いのがありますヨ」と言って蔵の中へ入って行き、しばらくして古い煤けた木箱から二十客くらい入っていて、虫喰いあとの和紙に包まれた皿を二枚出して「これの方がいいですよ」と言い手渡してくれた。「犬の散歩のお礼ですよ」と言う。「いいんですか、大切な物を?」と言うと「こんな古い物はもう使う事が無くなったねぇ」と言っていた。お礼を述べ、頂いた。「良かったね!」とでも言うように物言わぬ犬が尾を振り目を輝かせていた。
 地方の田舎のどこにでもある田んぼの風景の中で、二匹の犬を連れ歩くと、転勤で移り住んだ人間には思えないくらい、この土地の者になったような気がした。故郷の無い都会育ちの自分が、故郷に帰ってきた気持ちにいつの間にかなっていた。余所から越してきた自分に、風景も人も犬も何となく優しく温かく感じられた。
 貰った皿をよく調べると、外側はうすい青磁色をしていて内側は白地に染付で山水らしきものが描かれている。少し厚めの皿だった。
 岐阜県は海無し県だ。恐らく遠い肥前地方から長良川を遡って、昔運ばれてきたのだろう。
 当地は美濃和紙の産地だ。そんな時代の移ろいを想わずにはいられない。
 自分より遙か長い時を経てきただろうと思われる器は何となく懐かしく、いつか美濃の地が自分の故郷になるのでは?というような気がしてきた。器と同じように、漂着した所に長く留まれば第二の心の故郷になるのだろうと思えた。古い街並みも今の自分には合っている。人も少なく時代に置き去りにされたような佇まいだ。そして二匹の黒柴犬が「散歩に行こう」と言うように尾を振りながら「ワン」と吠えた。
 貰った青磁ナマス皿は小さな本棚に皿立てで飾ると見映えがする。裏底には窯印の福の字の田が渦巻きの様に描かれている。
 作られた頃の時代は規律の厳しかっただろうと思われ、無名の絵師や職人は、小さな脇で使う器でも丁寧に手を抜かなかった事がよく判る。美をより美しく表そうとする心意気は、製作技術が進んだ現在より絵心の発想が優れたようにも思える。その時代に厳しく慎ましく生きた人達の息吹を想い、長い時を刻んできた時代の風格さえ感じられる。自分より長い歳月に耐えて残っている器は、歴史が残るように意味づけられているのかも知れない。
 それゆえ、小さな物でも大切にしたいと思う。己を顧みる大切な時間まで貰ったような気持ちになっていた。そして外で犬が「散歩の時間だよ」と言うように鳴いていた事を思い出す。
 本棚のナマス皿を見ると美濃の懐かしい思い出が犬の姿と共に甦ってくる。


或る骨董屋さんに捧ぐ
浅川廣吉 
 現在の蒐集アイテムである掛時計・置時計・ランプ等の蒐集を始めて何年か経った頃の事である。この頃はまだ行きつけの店などはなく、暇さえあれば近郷の骨董屋さん巡りをしていた。そんなある日、初めて飛び込んだ店である。店内には5〜6台の掛時計がぶら下がっていたが、いずれも気に入った物はなく他の品物に目をやっていた時である。掛時計が好きなら某所に相当量の掛時計を持っている骨董屋さんがあるから、そこへ行ってみてはどうかと店のご主人がある骨董屋さんを紹介してくれた。
 時刻は夕方に近かったが車を飛ばしてその店に行ってみると、ご主人はたった今セリ市から帰ったばかりとの事。この時初めて骨董屋さんは殆ど毎日のように業者市へ行って品物の売り買いをしている事を知らされた。店内は骨董品というよりは中古品のような物が並んでいたが、奥へというのでついていくと、まず廊下の壁には八角時計やダルマ時計など、それも優品がずらりと掛かっている。これだけでも相当なショックを受けたが、とある一室に通されて唖然となった。そこには骨董の本の一頁を切り抜いたような世界が広がっていたのである。部屋は八畳とそれほど広くは無かったが、陳列されている物は掛時計をはじめとして、ランプ・蓄音機・置時計・刀剣・火縄銃・鎧・仏像・徳利などあらゆる分野の一級品がまるで所を得たかのように整然と並べられていた。ガラクタのような物ばかり蒐集していた私にとって、この部屋の光景は正に目から鱗が落ちる思いであった。中央には応接セットがあってご主人はお茶を振る舞ってくれ、色々な話をしてくれた。
 当時の私は勤め始めてまだ10年も経っていない頃であったから給料も安く、とてもこの部屋の品物など買える筈もなく、その日は廊下に掛かっているSEIKOSHAで大型の装飾の付いた掛時計を清水の舞台から飛び下りたつもりで買ってきた記憶がある。その時計は今でもコレクションルームの一角に掛かっている。
 その後、この骨董屋さんへは頻繁に出入りするようになる。そうするうちに向こうも私の好みが分かるようになってか、私向きの品物が入ると電話がくるようになる。電話がくるとそそくさと飛んでいくと、品物はあの部屋の一角を占めており、それは私のコレクションルームに収まるのである。今までここへ足を運んだ回数は百回を超えるだろう。私のコレクションの質をこれまで向上させることができたのも、この骨董屋さんあったればこその事である。これまでこの骨董屋さんから求めた物は優に百点を超えるだろうが、この骨董屋さんに手放した品数も百点を超えるだろう。こうやってコレクションの質を高めてきたのである。また行く度に様々な話を聞く事ができ、骨董の知識も相当会得することができた。つきあいは私が20代後半の頃からであるから、かれこれ35年近くになろうか。
 この骨董屋さんは骨董市にもよく番頭さんと一緒に出店していたが、3年程前になろうか、ある骨董市へ行くと番頭さんが一人で頑張っている。ご主人はと聞けば2ヶ月程前に亡くなったとの事。早速香典を持ってこの骨董屋さんをたずねると奥方様が対応に出られ、番頭さんの奮闘の元で亡くなったご主人が買い求めた品物を処分するため、店は続けていくという。
 この骨董屋さん、ご主人が健在であった十数年位前だと思うが、店舗兼住宅を改築し、応接間は十数畳に拡張されて相変わらず一級品が並んでいた。この時部屋の中に気にかかる卓上ランプが1台あったが、その時はただ見るだけで退散した。
 その後、どうしてもそのランプが頭から離れず、今年に入ってからの骨董市で出店していた番頭さんに聞いてみればまだあるという。早速番頭さんが店にいる日を聞いて行ってみると、たしかにあのランプがある。亡くなったご主人が買った時の仕入値で譲ってもらい今は私のコレクションルームの一員となっている。ご主人が亡くなってから3年も売れずに残っていたという事は、私の所へくる運命を背負っていたのかも知れない。亡くなったご主人が私に直接このランプを手渡してくれたように思えてならない。
 私は数十年前に親父を亡くしているが、親父は無口な人であった。退職して年金生活を始めた今考えてみると、親父と話した時間よりこの亡くなった骨董屋さんのご主人と話した時間が長かったのではないかと。
 幸いな事に今は、私向きの品物を扱う別の骨董屋さんと親しくなり、私向けの商品が入れば電話がくるが、最近はとんと御無沙汰である。それだけ品物がないか、品物の動きがないのかも知れない。


奥秩父、水晶谷の黄金牛像の伝説。
地島博秋 
今からおおよそ500年の昔、時あたかも戦国時代、奥秩父の水晶山の山麓の水晶谷の奥にはこんなことがあったそうな。
この谷はその名のとおり、良質の水晶が産出するため甲斐の武田、小田原の北条、越後の上杉まで入り乱れて争奪戦が繰り広げられたんだと。
だがな、本当のところは違っていたんじゃよ。この谷は実は砂金の宝庫で、谷川筋までも夕日にキラキラと輝くほど砂金の小粒が光っていたんだと。戦国武将達の本当の狙いもそれだったのよ。
そのころ、甲斐の武田は既に黒川谷の金鉱山を開発し、あわせて、この水晶谷にまでその手を伸ばしていた。
採掘した金は金山衆の松木一族に命じて「甲州金」と言う小粒金に仕上げて武田の秤量貨幣・軍資金として流通かつ、蓄えられていたそうな。
今、本物の「甲州金」は珍しいので、骨董市場でも相当高値がつくそうじゃな?
武田はさらに金を求めて、水晶谷に金山衆・金堀人足を大量に送り込み、急造の工夫長屋もこしらえて、砂金掘りと、精錬も行っていたそうな。
そして、峠には関所を設けて秘密がばれない様に監視をおさおさおこたらなかったという。更に砂金だけでなく水晶谷の金鉱脈も掘削して、その金鉱泥を水晶谷の水を水車で引いて精練もしていたそうな。
それで水晶谷の下流はいつしかにごり水ばかりが流れてふもとの大滝村では、ああ、また武田が金掘りしておるな。と噂したんだと。
だがこうした武田の金堀はこの、水晶谷の精霊を怒らせたのであろうか?ある日、はやり病がこの金掘り人足たちを襲い幾多の金掘り人足がばたばたと亡くなったという。
それがために、武田の金山奉行は山の神・金神様の怒りを静めるために、オス・メス2体の大きな純金の牛の像を作りそれを水晶谷の深い深い滝淵に沈めたという。
それから神の怒りも収まったのか、はやり病も、治まり、また金堀が進捗したそうな。
だが、やがて時は移り武田はあえなく滅亡、この金鉱山も引き払われたそうな。
そのとき,金掘りの形跡を消し秘密を守るために、武田の金山奉行は、金掘り人足や飯炊き女など全て切り捨てて殺し、水晶谷に流したんだと。むごいことじゃった。
その大量の血が3日3晩下流の村々まで流れたといわれておるんじゃ。それからはそこは呪われた場所として村人も怖くて近づかなかったそうな。
だが時は移り、江戸も終わり明治になった頃、村人の諌めるのも聞かず、ある男がこの純金の牛の像の噂を聞きつけて、捜しに水晶谷に入ったそうな。
そして何日かして、亡霊のようになってふもとの村へふらふらと帰ってきたそうな。そして「俺はほんとに恐ろしいものをみた」とだけ言うとその男は事切れたという。
どんな恐ろしいものを見たのか、それは誰もわからない。
水晶谷の精霊のたたりか、無残に殺された金掘り人足、飯盛り女の呪いだったのかのう?
そして、まだ黄金の2体の牛の像は誰にも見つけられずに水晶谷の滝つぼの奥深くに沈んでいるのだろうて。これが奥秩父の大滝村の水晶谷に伝わる昔がたりじゃよ。
え?今年の夏に【2010年】水晶谷隣のブドウ沢で救難ヘリが墜落して5人死亡だって?さらにはそれを取材するためにブドウ沢に入った記者2人も遭難死じゃと?
もしかしたらまだ山の精霊様と無残に殺された武田の金掘り人足たちの怒りと呪いは治まってはいなかったのかのう?
注。【これはあくまでも「伝説」です。証明された史実ではありません。念のため申し添えておきます。】


高麗茶碗 
文誉堂 
いつも集を購読させていただきありがとうございます。近頃、九州の骨董屋さんが掲載される数が減ってきているのが残念です。この度、紹介させて頂きたい品物は、高麗茶碗です。大分県湯布院で入手しました。箱もなく、無造作に古唐津茶碗と重ねられていました。そのように扱われるべきしなものでないと思っております。かといって時代箱に入って、箱書きなどあろうものなら自分の手元には決して来ないものと思っております。入手の経緯は、家族で別府に遊びに行き、帰りにふらりと立ち寄った骨董屋さんにありました。
店のご主人は、買出しで不在のため奥様の対応でした。
80歳くらいで矍鑠としたご婦人でしたが、品物を見る目は、厳しいものがありました。値段を聞くと、「こりゃ古いね〜。萩かね。20万位やね〜」との言葉に、言わなければいいのに、「いやー、李朝ですね。」と反論してしまい、妻に「怒らしたらいけんやろ。あんたには売らんよ」と。明日、「ご主人に値段を電話で聞きますので。」と言って帰りました。明日は、箱崎宮の骨董市があってましたが、値段のことが気になりそれどころではありませんでした。開店時間の10時になり、電話をかけたところ、まずいことに奥様でした。心配をよそに値引きのお願いをして「明日、買いに行きますのでよろしくお願いします。」と言って電話を切りました。次の日、改めて品物を見るとやはり古い伝世の茶碗でした。そのときには、高麗茶碗がいかなるものかもわからず、茶道の嗜みがあるわけでもなく、侘び寂びがわかる風流人でもない私ですが李朝の焼き物が大好きです。特に酒器は、毎日使って楽しませてもらってます。これも自慢のものです。20年骨董蒐集を趣味にしていますが、この茶碗は、自分が持つべきものでなく、どこかの美術館にでも寄贈すべきものと感じております。サイズは、口径127 mm、高台径60 mm、高さ80 mmです。小ぶりなのがいまいちですが堂々としたものです。そのときには、化粧箱をつけて、表に「高麗茶碗」「雨漏手」「銘 朝霧」と書いてもらいたいと思っております。骨董との出会いは、縁と思っており、いいご縁は、善行より生まれるものと信じ、日々、善行に励んでおります。これからも縁を大切にし、楽しい蒐集を続けたいと思っております。拙文で申し訳ありません。


一期一会(その7)
松沢善裕 
 お茶に興味を持ち始めた頃のこと。福岡市内のある骨董店で、一本の掛け軸に出会った。「これ、江戸時代の初めのころの文書で、持ち主が茶掛けに使っていたから、そのまま使うことができるよ」と勧められた。文字はよく読めないのだが「寛永九」という年号が入っている。そして六名ほどの連署がある。「これはかなり貴重な文書かもしれないよ」と言われよく見ると、書名の下に花押がない。「でも花押がないから、本紙じゃなくて写しの文書だよ」と言うと、がっくりした様子で「茶掛けには十分使えるよ」と譲ってくれた。
 家に帰り、古文書辞典を引っ張り出して調べてみた。「寛永九年」は一六三二年、連署しているのは「酒井雅楽頭忠世」をはじめとする江戸初期の老中たち。内容は、改易処分となった熊本の加藤清正の子どもの加藤忠広の熊本城の、城受け取り使の軍勢が通過するために、東海道各宿場の領主たちに受け入れ準備指令をした文書の写しらしいことがわかった。(当時はコピーがないので、右筆たちが文書の写しをとって次に回したもののようだ)
 そのころ「熊本城築城四○○年祭」で熊本は盛り上がっていた。そこで、ちょうどいい機会なので、熊本城博物館に持って行って詳しく内容を調べてもらおうと計画していた。それまで、自分だけで見るのはもったいないと、職場の仲間にも見せて自慢していた。
 ところがある朝、職場に着くと、異様な雰囲気となっている。「どうしたの?」と聞くと「火事で燃えてしまいました」と言う。あわてて部屋に向かうと真っ黒焦げで立ち入り禁止。呆然としてしまったが、現場検証が済んだあと許可をもらい部屋に入り、机の引き出しを開けてみると、中に入れていた掛け軸をはじめ通行手形や宗門改め帳などの紙類が全て灰になってしまっていた。嗚呼!
 その後どこから出たのか「1億円相当の資料が焼失した」といううわさがたち、新聞記者の取材を受けたのには、苦笑いするしかなかった。




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