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「骨董 笑日幸美 大賞」2011年度集48号第1回作品


ドスン、ガッシャン
金澤 厚四 
 ここ数年来、毎月第四日曜日に開催される、ある骨董市に必ずと言って良いほど出かけていた。顔ぶれは、私と運転主役の家内、そして私の友人AとBの4人連れである。AとBは、月に一度の骨休みと酒などきこしめていつもご機嫌である。
 友人Aは主に焼き物関係、友人Bは武具類、家内は古裂類、私は仏像や彫刻関係と、それぞれの好みが異なっているので、同じものをめぐって競い合うこともなく、それぞれが自分の気に入ったものを求めて楽しんでおり、いつしかなじみの骨董屋さんも何人かはできてきていた。
 ところがである。3月11日にドスンときた。震度6強。我が家は外部が一部破損、家の中は物が飛び出して足の踏み場も無く、歩きようもないくらいであった。やや落ち着いてから友人二人に電話をしたが、とても通じるものではない。どうしているかと案じていたら、翌日A夫婦が来宅した。津波で家が完全に駄目になり、着のみ着のまま逃げて、昨夜は避難所で夜を明かしたという。何とも言いようがない。友人Bは、建物外部が一部損壊、瓦も落ち、家の中は私の所と同様とのことであった。
 そんな折、早速に、自分達の所もかなり揺れて、相当の被害をこうむったであろう骨董屋さんから見舞いや励ましの電話をいただき、心温まる思いがした。
 気を取り直して、少しずつ片付けをし始めたが、自分で気に入っていたものが完全に壊れたり、一部破損しているのを見るにつけ、ふっと力が抜けるような気もしたが、すべては終わったことで致し方もない。そうするうちに第四日曜の27日になったその朝、友人Aから電話が入った。「いつもの骨董市に行くのに迎えを待っているけど、今日は遅いですね」とのこと。カラ元気の冗談とはいいながらお互い大笑いをしてしまった。
 そうこうしているうちに、「集」の購読確認のハガキが送られてきたので返送したところ、送られてきた4月発売号は被災地については無料贈呈とのことで、その味なはからいに心が和んだが、4月11日と12日に、またもや連続してドスン、ドスンときた。共に震度6弱。それまで八割ぐらい片付いていた家の中は元の木阿弥、前以上のひどい有様になってしまった。それでも片付けないことにはどうしようもないが、まだ最大の余震の心配をぬぐえない。不安は残るが、まあ、前向きに考えよう。
 さて、これからどうするかである。沢山の方々が被災されて苦しんでおられる中、骨董市通いなどと指弾されそうな気もするが、前々から私は、それこそ、雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも冬の寒さにも負けることもなく、未明から店を開いて頑張っている露天の皆さんの底知れぬエネルギーには感心していた。また、骨董市には、なんともいいようのない混沌とした中に、不思議な活力と魅力がある。すでに各地で市が立っているとのことなので、出かけられるようなら出かけていって、そのパワーに触れ、この毎日毎日の重苦しい気分から抜け出したい。
 これから先のことは、何が起きるか全く予測もつかないが、地震と津波は自然災害としてやむを得ないと思いもするが、それでも間断なく続く余震には心が休まらず、やはり正直なところ参っている。
 ともあれ、良きにつけ、悪しきにつけ否応なく世の中は回っていく。原発からほど近いこのいわきの地に住む者としては、東電や国の対応に物申したいことは山ほどあるが、それはここではさて置いて、日々の閉塞感の中でのつれづれなる思いを書きつづってみた。
 今日は4月の16日、この先は、鬼が出るか蛇が出るか…。

返せなかった火入れ
吉田 静司 
 部屋の隅に置いた座卓の上にボールペンやサインペン、短くなった鉛筆など入れた磁器の古い器がある。今では使う習慣がなくなった幕末か明治頃作られたと思われる火入れだ。
 それにはこんな思い出がある。
 昭和二十八年夏、祖母の従姉妹の嫁ぎ先へ連れて行かれた。当時家は疎開していて山峡の辺鄙な町に住んでいた。何で行ったのか子供だったので確かではないが、たぶん法事だったと思う。汽車と電車とバスを乗り継いで広い平坦な田園ばかりの村の中だった。家の入り口の脇の梅の木に凌霄花が絡まりたくさん咲いていた。
 老人や大人達は長い廊下の奥の座敷で酒肴しながら話し込んでいる。子供だった私は居場所もなく庭へ出た。庭の先に小さな小川があり、流れの中で赤いザリガニが動いているのが見えた。それが珍しく友達に見せたく捕りたかった。祖母に「ザリガニ捕りたい」と言ってズック靴を脱ぎ小川に入った。祖母は「気を付けなよ、汚すんじゃないよ」と言っていた。沼のように素足が沈み込みよろけながらザリガニを追った。家の近くにも川はあるが流れが速い清流でザリガニなどいない所だった。
 その家の子だと思う、二つ三つ年上の女の子が「ザリガニ捕ってどうするの?」と言って赤いハサミをよけながら捕まえると、親切にもブリキのバケツを持ってきてくれた。数匹捕まえバケツに入れガサゴソするのを縁側まで持って見せに行くとその家のお婆さんが「よく捕れたねぇ。」と言ってくれて何か嬉しかった。
 「友達に見せるんだ。持って帰りたい」と言うと「入れ物がないね」と言う。「何でも良いから入れ物貸して」と言うと困った顔をしている。暫くしてお婆さんは離れた納屋の奥から煤けたドンブリのような鉢を持ってきてくれた。「それ貸して」と言うと「汚れて汚いから返すのはいつでもいいよ」と言ったと思う。流れに下る石段を下り、中を洗った。流れが急に濁った。バケツからハサミを掲げるのをさけながら捕まえ、洗った入れ物に数匹入れ、這い出てくるのを押さえ、手拭いで蓋をし、帰り仕度をした。祖母は「服を汚してしょうがないね」と言い、お婆さんに「今度来る時、入れ物返しますから」と言いつつ、バス停まで大人達と歩いた。その後、祖母は従姉妹の所へ何度か行ったが、鉢は持って行かなかった。それが火入れだ。
 もう半世紀前のことだ。祖母も父母も亡くなり、祖母の従姉妹の縁もいつの間にか疎遠になり、転勤も重なり音信不通になったままだ。
 地方の転勤先で定年を迎え、三十数年ぶりに戻れたが、引っ越しの度に捨てようかどうしようかと迷いながら未だにペン入れとして使っている。遙か遠い昔のような気もするが、ついこの間のような気もする。あの夏の日にバケツを持ってきてくれた女の子の顔も忘れたが、きっと田舎のお婆さんになっているだろう。
 藍色の山水の絵が描かれた古い器を見ると、使うことのなくなった物の存在を通し、過去の物のなかった時代の記憶が鮮やかに蘇る。家に帰ってから友達に土産としてあげたザリガニはその時は喜ばれたが、食べられてしまったかも知れないと思うと「可哀想な事をしたな」とも思う。今は火鉢と同じようにほとんど使われなくなった火入れはもしかすると高価なものか?とも思う。珍しい品になっているらしいが、返す約束が果たせなく、少し気が重い。使う習慣がなくなると物もいつか寂れ忘れてしまうのだろう。幾代も経ただろう火入れを見て子供の頃の懐かしい思い出ともはや辿る事の出来ない空白の疎遠になった人達の事を思い、しんみりした気分になる。抹茶茶碗の形をした火入れを手に持ち「不用の用の美しさ」も残したいなとこの頃思えるようになった。


一期一会(その9)
松沢 善裕 
 仲間たちと「タイ歴史探訪の旅」に出た。バンコク周辺の寺院や、「戦場にかける橋」の映画で知られたクワイ川鉄橋までの泰緬鉄道を辿る旅だった。
 のんびりとした鉄道の車窓からは、いくつものタイに進出した日本企業の看板のある工場が目に入ってきたが、鉄橋近くのカンチャナブリの戦争博物館では当時のようすそのままの展示に、身が引き締まる思いだった。クワイ川鉄橋は徒歩で渡ったが、昭和19年に動員された父が開通間もない鉄橋を渡り、インパールへと向かったことを思い出し、感無量だった。
 バンコク最後の日の夕方、仲間と自由市場にでかけた。数百軒の常設の露店が集まる巨大なフリーマーケットである。閉店まで時間の余裕もなかったので、入場して一目散に骨董街を目指した。一軒一軒のぞいていくと、ある店先に石斧が並べてあるのに目が引き寄せられた。手にとってよく見ると、形も材質も異なる4個の小さな美しい磨製石斧である。見とれていると店の親父さんが「バンチェン」と言う。タイ東北部の古代文化の地である。
 どうしても欲しくなり「ハウマッチ?」と聞いてみたが、全く英語も通じない。身振り手振りで値段を聞くと「×××」とタイ語で数字を言っているらしいのだが、分からない。途方にくれていると、親父さんが電卓を取り出し数字を打ち出した。これなら分かる。しかし、その金額は自分の財布にあるバーツ紙幣の5倍近い。
 「これだけしかない」と目の前で財布を取り出し、紙幣を全部差し出した。すると親父さんは、石斧の1個だけを「これを持っていけ」と言うように渡そうとする。「いや、4個全部欲しいんだ」と懇願すると、仕方がないなぁというように2個だけを差し出す。そこで小銭入れも取り出して、コインも全部手に乗せて渡し「どうしても全部欲しい」とお願いした。
 困った顔をして親父さんは息子を呼び、何か相談していたが、「仕方がない、全部持って行け」と言うように、4個全部包んで渡してくれた。商談成立のお祝いなのか、タバコに火をつけ差し出したので一服したが、そのうまかったこと!
 集合場所に着き、石斧を並べて一人で喜んでいると、パトロールの警官がのぞきこんだので、見せると全く興味を持たず立ち去った。


国境を越えてきた置時計 
浅川 廣吉 
 新潟では平成3年頃から毎年春と秋に出店数100店以上のこの地方では大きな骨董市が開催されている。私は第1回目からここに通いつめており、1回も欠かしたことはない。2年ほど前のことになろうか。確か秋の骨董市だったと思う。毎回ではないが、たまに出店する埼玉の骨董屋さんが来ていた。その骨董屋さんは、主に蓄音機を扱う骨董屋さんで、時計は取扱品目外であったようである。その骨董屋さんの品物の中に唯一アメリカ製の置時計があった。幅40p、高さ35p程の大きな時計で、大理石の台の上にブロンズ彫刻が乗っており、そのブロンズの中に時計が仕組まれた見事な物であった。一目見た瞬間にこの時計に惚れ込んでしまい何が何でも手に入れたいという衝動にかられた。値段を聞けば手持ちの金額で入手できる額である。ご主人の話によれば、その時計はコレクターから買ったばかりで、正確に作動するかどうかもわからないという。手にとってみると、時計の取り付け部分にガタがある。喉から手が出るほど欲しかったが、こんな時計を買っても後で後悔することになるだろうとその時は諦めることにした。現にこれまで整備不良の時計を買って後悔したことが何回かあったからである。店を立ち去ろうとするとその骨董屋さんが、この時計を整備して完全な物になったら連絡するから住所・氏名・電話番号を聞かせてくれという。そこにあった紙切れに住所・氏名・電話番号を書いて渡し、その場は撤退した。
 それから半年以上経った6月頃のことだったと思う。その骨董屋さんから一通の手紙が舞い込んだ。書面を見るとあの時計を調整し、完全に動くようになったとあり、時計の写真も同封されて、寸法まで記入してある。欲しいことは欲しかったが、出不精でモノグサコレクターの私はとても埼玉まで行く気はしない。折角の心遣いであるが、埼玉まで行けないと電話したところ、近々山形まで買い出しに行く用事があるから、その足で時計を積んで家へ寄っても良いという。家が分かるのかと尋ねれば、今はナビゲーターなる物があって、どこにでも簡単に行けるという。それではということで、向こうの指定した日時を心待ちにした。
 時計が来る当日は、朝から上の空であった。送られてきた時計の写真を何回も眺めてはどこに置こうかと置き場所を検討し、やがて置き場所も決まった。10時頃だったであろうか。玄関のチャイムが鳴ったのでそそくさと出て行くと、そこにあの埼玉の骨董屋さんの姿があった。早速車の中を覗いてみれば、紛れもない恋焦がれたあの時計が積んである。早々に車から降ろしてもらってコレクションルームに運び込み、ゼンマイを巻けば立派に作動する。当然にしてこの時計はコレクションルームの指定席へ置かれることになったのである。未整備の時計を完動品にし、わざわざ埼玉くんだりから届けてくれたにも関わらず、値段は先の骨董市の言い値と同額にしてくれた。置時計のコレクションはこの時計のように大きい物から高さ5pほどの小さい物まで併せて20数台あるが、この時計は一番惚れ込んで買った時計であり、コレクションルームの一等席に座っている。
 長い骨董蒐集歴の中で私のコレクションルームに入った骨董屋さんは、今はもう無いかつての行きつけの骨董屋さんと、この骨董屋さんと、私が不用になった物を買っていただく骨董屋さんの3人だけである。しかも私が欲しいと思っていた品物をわざわざ埼玉から手紙に写真まで添えて紹介してくれ、国境を越えて届けてくれたのはこの骨董屋さんだけである。骨董市で出会った一つの時計が私とこの骨董屋さんの人間関係をより親密なものにしてくれた。この骨董屋さんと長々話をしたのは彼が家へ来た時の1回限りであるが、それ以来この骨董屋さんが行きつけの骨董屋さんのように思えてならない。その後、骨董市でこの骨董屋さんに会ってはいないが、いつか会った時には家へ来た時のように長々と骨董談義に花が咲くのだろう。
 この骨董屋さん、「集」にも何回か登場しており、「集」を見返すたびに懐かしく思う。


古いものから学ぶ
面手 勝仁 
 骨董の話で、アニメの話で恐縮ですが30年前に放映された、「機動戦士ガンダム」の中で、悪役としてマ・クベという人物が登場しました。非常に、古陶磁好きな人物として描かれ、戦場でも北宋の壺を撫でていました。このマ・クベ指揮官みたいな人物がすごく変人みたいで嫌いでしたが、40代になって、自分も古伊万里とか、唐津の古い陶磁器を触って楽しんでいる、自分に少し自己嫌悪している昨今です。でも、遥か何百年も前の日本人が、あらゆる技術、素材を駆使して、作られた陶磁器は、尊い物だと考えています。単なる金銭的価値、投機の目的で古陶磁を捉えている風潮は戒めるべきである。でも、その存在意義は金額で反映されているのも事実ですが。しかし、以前数千円で買った、きれいな古伊万里のコロ茶碗は、金額以上の感動を与えてくれました。
 (文人らしき人物が、独り雲中の月を眺めている姿)とにかく、柳宗悦ではないが、美しいという物を見出す直観を古い物からみいだす眼を、養わなければならないでしょう。しかし、現在の学校の美術教育では、美を見い出す事(つまり感性)より、技術的なことを漫然と学ぶことのみである。あの岡本太郎ですら、ピカソが居なかったら、あそこまで弾けなかったでしょう。結局「古典に学べ」なのです。だから、ガンダムのマ・クベみたいな人物は、人類が宇宙に移住するようになっても、必要なのかもしれません。




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