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「骨董 笑日幸美 大賞」2011年度集50号第3回作品


一期一会(その10)
松沢善裕 
以前、福岡市では「粗大ゴミの日」があり、月に1回家庭の粗大ゴミを自由に出すことができた。粗大ゴミ置き場には、電気製品や家具をはじめさまざまな物が出され、宝島の宝探しみたいな感覚で、見て回る楽しみもあった。リサイクル業者の車もよく回っていたが、なかには家庭の家具・調度すべてを粗大ゴミから揃えた仲間もいた。
 ある夜、公民館で学習会があり、その帰りに傍の粗大ゴミ置き場が目にとまった。壊れた家具などの他に、お皿が十数枚重ねて出してある。「おやっ?」と思い、近づいて手に取ってみると、カレー皿にでも使ったようなちょっと古そうな中皿で、裏には「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」と英語で書かれている。一九四五年から五一年まで、日本が連合国に占領されていた間の製品にだけ書かれた銘だ。歴史では学んでいたが、目の前にその資料があるのにびっくりして、早速公民館に許可をもらい、全部の皿を持ち帰った。
 翌日から仲間たちに「こんな貴重な品物が手に入ったよ」と見せて自慢したところ、何人もの人から「私もほしいから、一枚ちょうだい」と言われ、「ただで拾ったものだからいいよ」と気前よく分けてあげた。ところが数ヶ月後、「オキュパイド・ジャパン」の資料が必要になり、部屋を探しまわったが一枚もない! 「しまった! 自分の分を残しておくのを忘れていた」
※後日、親の家を片付けるという仲間がいたので、「オキュパイド・ジャパンの銘のある品物があったらちょうだい」と頼んでいたところ、「ホウロウの大皿の裏にオキュパイドと書いてあったよ」と届けてくれた。ホッ!


一期一会(その11)
松沢 善裕 
もう20年も前のことになる。朝鮮通信使に興味を持ち、勉強を始めていた。鎖国下の江戸時代の人々にとって朝鮮通信使の来日は、一生に一度あるかないかの大イベントであり、その強烈な印象は各地に残る祭りや物品にも残されている。
 本で調べてみると、浮世絵にも格好の題材として取り上げられていた。特に葛飾北斎はその「東海道五十三次」シリーズの中に2か所も取り入れていることが分かった。『原』では富士山のふもとを行く通信使の行列が華やかに描かれ、『由井』では求めに応じて「清見寺」の額を揮毫している通信使の姿を描いていた。
 どうしても手にとって見たくなり、知り合いの古美術商にお願いして探してもらったが、なかなか見つからず、しばらくたって「『原』が手に入りましたよ」との連絡を受けたときは、ほかの用事はほうり出してかけつけた。浮世絵を手に取って見ると、楽しげに富士山をながめながら進む通信使一行が色あざやかに描かれている。
 うれしくて、カラーコピーを10枚ほど印刷して、「通信使行列が手に入ったよ。北斎だよ!」と仲間に自慢しながら配っていった。ある時、そのようすを見ていた仲間の一人が、「もったいない、せっかく無理して買ったんだから、1枚1000円で売ればいいのに。それでもみんな資料として買うのに」と忠告してくれたが、時遅し…。
 こうなると、もう一枚の『由井』も欲しくなり、探してもらったが、「なかなか出ないですね」の声で、あきらめかけていた。ところが数年後、妻が「きのう、こんなカタログが届いていたわよ」と、東京の浮世絵版画目録を渡してくれた。早速開いて見ると、そこに北斎の「東海道五十三次」シリーズの浮世絵がずらっと出品され『由井』もある! しかも価格は『原』の4分の1! あわてて出品店に電話した。「ああ、その作品はきのう売れてしまいました」「………」
 「何できのう渡してくれなかったんだ! おかげで、何年も探していた通信使が手に入らなかったじゃないか」「ごめんね、きのうは忙しかったから忘れていたの。縁がなかったとあきらめて」「怒、怒、怒、!!!」
 それから何年もカタログなどでも探したが、目に入ることもなくあきらめていた。だめもとで『集』のアンケートはがきに「清見寺で揮毫する通信使の浮世絵があればほしい」と書いてみたが、到底無理だろうと忘れてしまっていた。ところが年末に『集出版社』からカタログのようなものが届いたので、何だろうと開いてみると、「北斎の版画が見つかりましたので、ご案内させていただきます」との説明書と『由井』のカラーコピーが同封されている! 「おーい、見つけてくれたぞ!」と妻を呼ぶと、ほっとした表情でコピーを見入っていた。縁はありがたい、願えばかなうものですね。
※集出版社への手紙・抜粋
 お陰様で東海道五十三次『由井』、無事に届きました。色も想った以上にきれいで、何より長年想い続けたひとに会えたような気持ちで、うれしくお正月を迎えることができました。本当にありがとうございました。早速、『原』と『由井』を並べてカラーコピーにとって、友人たちに見せて回っています。20年以上もかかって手元に揃ったものですから、その経緯をまとめてみました。


コシャマインの埋蔵金伝説 
千島 宏明 
時は明治も終わりのころ、当時樺太と呼ばれていたある村で一人暮らしのアイヌ女性が亡くなったそうです。と、ここまでは別に何の珍しい話でもありませんね。ところがこのアイヌ女性の家を調べてみたところ、なんと金の延べ棒十本が発見されたのです、鑑定した処全部金無垢の本物でなんと十万円の価値があるという、当時の十万円といえば今の価値で六千万円くらいでしょうか? そしてもう一つ、ぼろぼろの日記も発見されました。それは安田徳太郎(仮名)という人の日記で読み解いてみると、なんとそれはコシャマインの埋蔵金についての記録ノートだったのです。
 その日記を読み解いてみると何でも、安田はもともと、猟師で、北海道の〇〇村で山中深く分け入って猟をしていた時、とある深い山中で、隠れ住んでいたアイヌ一家と巡り合ったそうです。アイヌは「どうかここで隠れていることを誰にも話してくれるな」と安田に頼んだという。そして口止め料としてアイヌの主が差し出したのがなんと金の延べ棒だったという。安田はどうせ、まがい物と思ったがとまず受け取ってその地を後にしたという。
 帰宅して延べ棒はタンスにしまいすっかり忘れていたという、さらに数週間後再び山に猟に行くと、今度は津軽藩士の子孫という二人連れの男に出会ったという。二人の話すところによると、先祖の伝承で、コシャマインから奪い取った、砂金を延べ棒にして隠したという、武田信広の埋蔵金延べ棒数百本を探しているのだという。
 その場はわかれて帰宅した安田はふとあの延べ棒を思い出した。そこで、箪笥から取り出して町に行って、大きな両替商兼質屋に持ち込んだところ、なんと本物の金で、千円で引き取ってくれたのである。明治後期の千円といえば、今の価値で、四百万円だろうか? 安田は「あのアイヌ一家は、埋蔵金を見つけたんだな。だから自分たちのことを話してくれるな、といったんだな」と悟り、再びあの出会った山中に分け入ったがそこはもう、もぬけの殻だった。
 それから1年後、安田は山で猟をしていた。今まで行ったこともない深くまで分け入ると、クマザサの中にあのいつかであった、津軽藩士の二人連れの死体に出くわしたのだった。白骨化していたが身なり服装からあの津軽藩士に間違いなかった。そしてその死体をどかしてみると、その下から、あのアイヌの主からもらったと同じの金の延べ棒が数本、出てきたのである。安田はその延べ棒を拾い集めて袋に入れて持ち帰った。その延べ棒を元手にこっそりと埋蔵金とわからないように少しずつ売りながら、猟師はやめて、街に出て小料理屋を始めたのである。
 それから2年後、安田は偶然町であの消えたアイヌ一家の、娘とばったり出会う。聞けば父も母もなくなり、今はこの町で、あの延べ棒を少しずつわからないように売りながら生活しているのだという。ただしその隠し場については亡くなった両親がたたりを恐れて娘にすら決して教えてはくれなかったそうです。安田は自分も金の延べ棒でこうして小料理屋を開くに至った経緯を話す。二人は意気投合して、同居し始めたのである。
 そしてこのコシャマインの埋蔵金、実は武田信広がコシャマインから奪った膨大な砂金を延べ棒に鋳なおしたもの数百本と言われているわけなのであるが、二人はぜひ残りの埋蔵金を何とか、探してほりだそうとはなしあったのである。と、日記はここで終わっている。
 では、その後二人はどうなったか、巷間の伝承によれば安田はその後、コシャマインの乱で殺されたアイヌの呪いなのか? 頭がおかしくなり、小樽の親類に引き取られて間もなくこの世を去ったという。ではアイヌ女性はどうなったか? この女性はやがて樺太にわたり、ある男と所帯を持ったというがその男も、すぐ亡くなり一人住まいののち、最初に書いたようにある日、金の延べ棒10本とともに変死体となって発見されたのである。これもコシャマインのたたりなのか?
 その後多くの人がこのコシャマインの埋蔵金を探しに山に入ったがまだ誰も大発見には至っていないようだ。それとも誰か運よく発見してこっそりとすこしずつ運び出しては売り払いわからないようにひっそりと地味に暮らして死んでいったのだろうか? そうしてまだ大量の手つかずの何百本もの、金の延べ棒の山は北海道の大地の奥深くねむりつづけているのだろうか?


電笠は見上げるもの
浅川廣吉 
手元に電笠の本が2冊ある。明治・大正・昭和初期の電笠の写真集であり、色付きや切子の電笠が一点一点カラー写真で写し出された物である。写真撮影の仕方も実際に電球を灯して電笠の模様や色を最大限に引き出すよう撮影する方向も殆どが真横からのものであり、見ているだけで目の保養になるような大変素晴らしい写真集である。この本は相当前の骨董市で手に入れた物で、買う時に店のご主人が言うには、同会場に出店している他の業者が欲しがっている本で値段の折り合いがつかずそのままになっているとの由。正に間一髪で手に入れた貴重な写真集である。電笠のコレクターではないが、この写真集を見ていたら、我がコレクションルームの一画にもこんな素敵な電笠を2〜3個吊してみたいと思うようになった。骨董市などへ行くと気を付けて捜すのであるが中々見つけることができない。あっても私が思っているよりは遙かに高い値段が付けられていたり、今出来の新物であったりして買うまでには至らないでいた。ところがある骨董市で一軒の店に一個だけあの写真集になるような電笠を発見した。笠全体は乳白地で縁は8ヶ所位で金魚鉢のように波打っており、表(上)は幅3ミリ位の青ガラスで縁取りされている。この縁取りから取り付け穴に向かって1センチ5ミリ程の間に縁と同色の素麺のような細い筋が入っており、径20センチ、深さ10センチに満たない浅い平笠に近いタイプである。私の思っていた値段に近い値札が付けられており、値引き交渉をしたが相手は一歩も引き下がらない。相当自信のある品物であったのだろう。結局向こうの言い値で手に入れ、コレクションルームのどこへ吊るそうかなどとあれこれ楽しく思案しながら会場を後にした。
 帰りにはホームセンターでソケットや電球を調達し、コレクションルームではそれなりの配線をして天井から吊るし、電球を灯して椅子に腰掛け、これから始まるであろう至福の一時を思い浮かべながらその電笠を見上げた時である。斜め下から見上げる電笠は殆ど真っ白にしか見えなかったのある。この電笠の唯一の見どころであるあのブルーの細い筋模様は見事隠れてしまっていた。そういえば骨董市で見た時の電笠は目線と同じ高さに陳列してあった。電笠の写真集も殆どが真横から撮影されたものである。それまで電笠は横や上から見るものではなく下から見るものだということは一切頭になかった事である。これは業者に騙されたとか写真集が悪いとかいうのではなく、全く私の常識外れの思込みがもたらした正に身から出た錆であった。がっかりしたが、何が何でも椅子に腰掛けてあの模様が入った電笠を見ていたいという思いにかられた。まず吊す位置を極力部屋の隅へ移動させ、高さも床から1メートル40センチ位の所にまで下げてようやく椅子に腰掛けて千筋文の電笠を見れるようになった。この高さは非常にぶつかりやすい位置であり、部屋の中の物を動かす時など何かの拍子に壊してしまう気がしないでもないが、椅子に腰掛けて模様を楽しむにはこの高さしかない。物はいつかは壊れるであろうから仕方のないことだと思う。ただそれが早いか遅いかだけのことである。
 それにしても電笠が下から見るものだということは、買って灯してみてはじめて認識したことである。こんな苦い経験をしたお陰であれから骨董市などへ行って電笠があると手に取って下から見た時の姿を想像するようになった。あの時買って失敗したような平笠に近い浅いタイプの物より高い位置に吊しても十分にその魅力を感じ取れるようなチューリップやユリの花のように広がりが小さくて深みのある物に気を止めているが、相変わらず値段の折り合いがつかないものや今出来の新物ばかりである。明治・大正・昭和初期という短い間ではあったが、その下では様々な人々の人間模様が展開されたことだろう。写真集にあるような素晴らしい電笠を見上げたであろう古人の中でこれを真横に近いような角度から見ることができ、その美しさを十分に享受できた人は果たして何人いたのだろうか。尤もこの時代は物凄いスピードで生活が変化した時であり、電笠の美しさに浸る余裕などなかったのかもしれないとは思うのだが。


古九谷の皿
武田佐俊 
鹿児島県は大隅半島のある町の旧家に、古九谷の尺皿があるという話が、伝説的に骨董仲間に伝わっている。
 その皿の図柄はエビで、ある人は朱、ある人は黄、ある人は紫という人もいてまさに七変化なのだった。
 この皿の存在が知られたのは、鹿児島市内の骨董店主が、この旧家から武具甲冑を引き出した際、目にしたことから始まったようだ。かれこれ三十年前の話だ。
 以来、多くの骨董ファンがこの旧家に行くが、引き出すのはおろか、目にすることもできない。主は八十代の女性だという。
 骨董仲間の一人、C君は公務員。高校時代からのコレクターで、現在五十代。人が持たない物を集めるという人物。もちろんこの古九谷の皿は知っていた。
 そのC君から古九谷の皿を何とかしてくれないか、と依頼されたのは四、五年前のことであった。旧家と私の家がそう離れていないということ、私が人と話をするのを得意とする、と思ってのことのようだった。
 私は彼の依頼を聞いて「君は古九谷の皿の値段を知っているのか」と聞いた。すると彼は数日後、車から数点の品物を私の家に運んできた。その中に、土門拳の写真集の信楽の大壺があった。それも完品である。ほかにも茶道具など、相当の名品の皿や置物も持ってきた。
 本気だな、と思った。以来その旧家に何回か足を運んだ。と言っても人の家の庭先に立って、何か骨董品はないかと尋ねるのは苦手だ。古い門構えの大きな建物を見て、この中に古九谷の皿がある、と思って引き返すだけであった。
 二年前の夏、いつものようにその家に行くと、四、五人程の男女が草取りやヤブ払いの作業をしている。人材シルバーセンターの人達である。いいチャンスだと思ってその一人に話しかけた。「この家には、骨董品のいい皿がある、と聞いていますが」すると「骨董品かね、うちらは、外の仕事ばかりだから、家の中のことは知らない」と言う。
 そうするうち、家の中から主の女性が出てきた。お茶が入ったよと言う。十時の休憩だったのだ。その主、私を見ると「あんたもお茶を飲みなさい」と声をかけてくれた。
 広い玄関でしばらく雑談が続いた。どこから来たのか、何の用事かと聞かれたので、宮崎県串間市だと答えた。この町に友達がいて時々遊びに来る、と自己紹介をした。彼女は手を耳にかざして私の話を聞いて、八十九歳になったこと、耳が遠いと言った。
 人材シルバーセンターの人達が外に出ると、私と主だけになった。頭の中は古九谷の皿だけであった。あやしまれないように家の中を見ると、障子が閉めきって何も見えない。家の中に蔵があるという噂なんだが、いきなり骨董品のことを聞くわけにもいかない。
 しばらく雑談していて、主は友達は誰か、と聞いてきた。私は正直に、リサイクルショップの店を営む友人の名前を告げた。そして、時々その店で骨董品を買うことも話した。そのあとに「お婆ちゃん、この家にいいお皿があるそうですね。見せて頂けませんか」と切り出した。
 昔からの性急な性格は治らない。初対面でいきなり家の宝物を見せてくれ、と言った自分を間抜けだと思った。「ありますけど、蔵の中のどこにあるやら、わかりません」と主は言った。
 それから何回か足を運んだ。そのつど手作りのダンゴや新鮮な魚などを持参した。主は娘と息子といて、二人とも遠くにいて一人暮らしを続けていること、主人はとうの昔に亡くなったことなどを話すようになった。
 何回か訪問して気がついた。一週間か十日間の間隔を置いて行くと、そのつど「どなたでしたかね」と聞かれるのだ。認知症ではないか、と。
 訪問する度に皿のことを聞くが、「町に寄付した」とか「誰かに売った」とか言われる。しかし、町には歴史資料館があるが、皿の展示はない。誰かに売ったとすれば、すぐに話題になるはずだ。
 よく言えば粘り強い。悪く言えば執念深い。めげずに足を運んだある日、主は、婆ちゃんは玄関で三つ指を突いて私にこう言った。「あなたが、私の家の古九谷の皿を、何とか手に入れたい、という思いはよくわかる。しかし、あれは先々代々伝わる大事な物、手離すわけには、いきません。あなたのことは、息子や、娘にも誰にも話さないから、これから来ないで下さい」
 恥じ入るとはこのことだ。以来婆ちゃんを訪ねたことはない。古九谷の皿の写真を見るたびに、婆ちゃんの言葉を思い出す。


組揃いの山水舟人物文皿
吉田静司 
数年前『集』アンケート用ハガキを出し希望の長野県須坂市の田中家本家の入場券チケットが抽選で当たり送られて来た。いつか機会があったら見学したいと思っていた所だった。しかし家からは遠く新幹線をつかって乗り換え時間を含め六時間位かかると思われる。
 夏の初めに思い切って車で行く事にした。カーナビがなく地図をたよりにそれでも途中道歩く人に訊ねながら目的地に着けた。
 豪商の舘は土蔵がとり囲む時代を経た壮大な屋敷で左廻りで見学出来る様になっていた。土蔵展示室の四〜五番目位から古い伊万里の大皿や中国明時代の色絵皿、酒器や煎茶器、抹茶茶碗類など生活用品や江戸時代から昭和の初め頃迄の衣装などが判りやすく展示されている。一番驚いたのは山水舟人物文皿がガラス展示室の一角に六種類の形や大きさの異なる同じ紋様の絵柄が並べてあった事だ。組揃いと表示されていた。私はこの図柄と同じ模様の品を以前買った事がある。
 それは十三年程前、岐阜県に転勤し二年程たって偶然知り合いになった昔から骨董店を営み、三代目にあたる店主の店でガラスケースの中にあった。彼は「景気のいい時は佳品がたまに買出しで出てくる事もあるが今の様な不景気の時は二度と出てこない物ですよ」と言う。値を聞くと私の小遣いではとうてい買えない額だった。業界では通り物と言われている数が二十枚ずつ四種類揃っている。染付の藍の色も古色に見え強烈に魅せられた。ケースから出し「騙されたつもりで本物を持たなければ良さは判りませんよ」と、そして店主は見透かしたように「月賦でもいいですよ。あなたを信用して」という言葉に思わず審美眼もある訳でもなく一連の斬新な模様にのめり込む様に「それでお願いします」と改めて会社の名刺を渡し、この時をのがしたら手に入らないだろうと妻にも内緒に購入を決めてしまった暴挙だった。思い出せば感慨深い記憶として残っている。清算後、真贋を危ぶんだ事もある。
 その品と同じ染付の器が展示され並んでいる。当時転勤で生活の急変と仕事の鬱積した焦躁の中で何か別の世界に夢みたのだろう。ストレスを回避しようとする逃避行動だった事も確かだ。館の伝世品の器をみて喜びとも嬉しさとも違う充実感が得られた。見学中に庭園池端の夏椿の大木に白い花、土蔵壁一面にアメリカンブルーの朝顔の淡青く咲いていた事が印象に残り、来て良かったナとも思った。
 何百種類の器の中で展示されている同じ模様のものを得た事に達成感のような安堵感も持てた。この旅は岐阜の店主の嘘のない誠意と目の確かさを確認した様なものだった。
 友人がたまに来た時、テーブルに揃いでセッティングすると幾時代も経て残された染付の古風な江戸時代の栄華をもかもし出し、遠い時代の洗練された美に対するステータスな気分も味わえる。友人達はそんな私の思いは誰も知るよしもないが、自分では隠れたささやかなもてなしのつもりでいるが友人達が帰った後、家の者は「そんな古臭い器で食べ物を出すと若い人に嫌われますよ」と冷ややかに言われたので、「古い物の良さが判らない者は本当の味は判らないよ」と小さな声で言い返した。まるで骨董屋の主になったような気持ちで!……


大珍品、草書銘龍眠斎の「継ぎ穂」
矢野恒夫 

幕末から明治にかけて活躍した、有名な刀鍛冶の会津和泉守兼定(会津兼定十一代)は、新選組副長の土方歳三の大活躍による名声により、土方歳三の愛刀の刀鍛冶として、刀剣愛好家のみならず、一般の方にもよく知られている刀鍛冶の一人です。
 その会津和泉守兼定の弟子、越後与板藩井伊家に仕える松永龍眠斎兼行は、廃刀令後の明治十年に、現在の群馬県富岡市七日市に、新天地を求め移住しました。
 同地に於いて、七日市藩(前田家)の総鎮守であった蛇宮神社の宮司、その後富岡の諏訪神社の宮司を務めると共に、刀鍛冶、刃物鍛冶を継続して門人を二人育てます。
 一人は、長男松永兼重、そしてもう一人が龍眠斎兼友でした。
 松永龍眠斎兼行は、龍眠斎兼友という後継者を得て、安心したかの様に、大正二年六月三日、行年六十九歳で亡くなりました。
 その松永龍眠斎兼行より伝統ある鍛刀術を受け継いだ龍眠斎兼友の刀鍛冶の名声を伝えるものとして、現天皇の御誕生記念刀を製作、その打初式を伝える、地元の上毛新聞、昭和八年十二月二十四日付で、写真付の掲載記事となっています。
 一方、刃物鍛冶としての名声を得たのが、切れ味と、使い良さにより、名品の名を欲しいままにし、養蚕の盛んな地元富岡はもとより、信州佐久地方よりの注文が多かったといわれている、継ぎ木用の小刀があります。
 この小刀は、「継ぎ穂」と呼ばれ、桑の継ぎ木の為に使用され、大正から昭和初期にかけて、多く製作された様です。
 価格としては、一般の鍛冶屋の三倍から五倍位であったが、その実力と人気で注文に製作が追いつかない状況であったといいます。
 その材料となる鋼は、当時の鍛冶屋では使いこなすことが困難であった東郷二号鋼が使用されていました。
 兼友は、刀鍛冶としては、「龍眠斎兼友」と銘を切り、刃物鍛冶のときは、「藤原兼友」と銘を切りますが、写真の「継ぎ穂」は、柄の部分には、刃物鍛冶の屋号である「カネマルマタ」の焼き印が、刃部には「藤原兼友」の銘を切っていますが、通常は楷書で銘を切りますが、草書銘となっているこの「継ぎ穂」は、唯一残っている大変珍しい物だと思いますので、この大珍品を次世代に残して伝えたいと思います。




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